熊谷男女4人殺傷事件 16歳少女の「やっちゃえ!」が生んだ地獄【平成の怪事件簿】

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荒んだ家庭環境

 刑の確定後、吉村カオリの母親を取材した。「今後は娘の幸福だけを考えていきたい。そっとしておいてほしいのが本音なんです」と語っていた。

 吉村カオリが生まれたのは、1986年11月。母親は「小さい頃から甘えん坊だった」と、彼女の幼い頃を振り返る。母親が家にいるときは、いつもそばから離れず、衣服の裾をつかんでいるような子どもだった。

 家庭の状況は、およそ幸福とはかけ離れていた。

 生まれたとき、家庭には異父姉の長女と、次女、長男の兄がいた。父親は資産家の長男で、経済的には豊かだったが、子どもたちに極めて暴力的だった。

 とくに長女と次女に対する扱いがひどく、殴りつけることはもちろん、庭にある池に投げ込んだり、紐で縛り上げて梁に吊るしたりするような暴力を、日常的に加えていた。カオリを含む幼い子どもたちは、その暴力を、正座しながら見守っていたという。

 髪の毛をつかんだまま、子どもを2階まで引きずっていく。体をガラス戸に叩きつける。縛り上げられた子どもが「おしっこ」と言っても、その場で尿を垂れ流しさせる……。

「父親の暴力は、子どもたちが血を流すまで止まりませんでした。叱る理由は何もなく、自分の気分で暴力を振るうのです。止めに入ると、逆ギレして、子どもたちに対する暴力がさらにエスカレートするので、私はただ見ているだけ、何もできない状態でした」

 父親が帰宅する車の音がすると、家の中は極度の緊張が張り詰める。子どもたちは皆正座して、今度は自分の番ではないかと恐れおののく。正常な家庭とはいえなかった。

 カオリが5歳になったとき、母親は離婚を決意した。夫の暴力に耐え切れなくなったためだ。なぜか、父親がカオリに手を上げたことは一度もなかった。しかし姉たちに対する父親の暴力は、カオリの幼い心の中に無意識のうちに焼きついていたはずだ、と母親は言う。だからこそ、尾形の暴力を目の当たりにして、何もできなくなってしまったのだ、と。

 母親は離婚したあと、父親と別居して、子どもたち4人と暮らし始めた。しかしその生活も長くは続かない。約2年後、母親は経済的な事情から、長男とカオリの2人を、すでに後妻と連れ子がいる父親のもとへ預けたのだ。カオリが小学1年生のときだった。

 10カ月後、近くの公衆電話から電話があった。受話器から、長男の泣き声がする。「どうしたの?」と聞くと、父親の後妻に電話ボックスに置き去りにされたという。結局、長男とカオリは再び母親の元にもどってきた。

「カオりたちにすれば、ものすごく傷ついたと思います。母親である私に一回捨てられ、今度は父親にも捨てられて。だから、戻ってきた時からは、かわいそうだと思って、上の子たち(姉2人)以上に、愛情を注いで育てたつもりです。不思議なことですが、父親にあんなにひどい虐待を受けた上の姉たちが、まっすぐに育ったのに、カオリと兄がグレてしまった。私の育て方が、どこかで間違っていたのかもしれません」

 もっとも、母親のカオリに対する愛情には、物理的に限界があった。育ち盛りの4人の子どもを養育するため、母親は昼も夜も働きに出て、結果的に子どもと接する時間が少なくなってしまったのだ。子どもたちと会えるのは、週1日の休日のときだけ。不在の間は、同居していた祖母が母親の代わりとなって子どもたちの面倒を見ていた。

 カオリは元来、気持ちの優しい子どもだったという。母親代わりの祖母が大好きで、母親が祖母と口論すると、カオリは必ず祖母の味方をして、後でこっそり祖母を慰めるようなところがあった。そんなカオリが、小学校低学年の頃、一度だけ、「お母さん、誰とでもいいから結婚して」と言ったことがある。「今から考えれば、父親がいないので、ずっと寂しい思いをしていたのかもしれない」と母親は振り返った。

「慣れてしまった」

 そして、ちょうど小学校の卒業式を終えたあと、ある出来事が起きた。ふとしたことから、父親が働いている場所が分かり、カオリは勇気を出して一人で会いに行くことにしたのだ。捨てられたとはいえ、5年間も会っていない父親である。カオリは精一杯のおしゃれをして、父親が店頭販売で働いている店先へ足を運んだ。

「私は車をとめて外で待っていました。するとカオリが、すぐに泣きながら戻ってきました。カオリだと知りながら、父親は一度も目を合わせようとしなかったそうです。子どもにしてみれば、『もう二度と来るな』と言われたような気がしたんでしょう」

 父親に素っ気なく扱われ、泣いて帰ってきたカオリは、以後、絵に描いたような非行の道を歩んでいくことになる。

 中学校に入る直前の春休みから、カオリの外泊が始まった。

「もちろん最初の頃は、夜遅くなっても戻ってこないカオリを心配して、長女と2人で町の中を必死で探し回りました。車で河原まで下って、事故にあっていないか確認したものです。友達の家に泊まったことがわかったときは、こちらが迷惑をかけた側でありながら、その家の人に“なぜ勝手に泊まらせるのか”と文句を言いに行ったこともあります」

 だが、夜遊びが重なるに連れ、母親はいつしか、探し回るのを止めてしまった。「なぜと言われると……、結局、親も図太くなって、慣れてしまったんです。今日は帰ってこないけど、どうせ明日には戻ってくるだろう、と」

 母親は、夜遊びを繰り返すカオリに、なぜそのようなことをするのかと理由を尋ねたりすることもなく、頭ごなしに、ただ叱責を繰り返した。走り出したものをなんとか制止しようとするだけで、精一杯だった。

 不良交友や窃盗、女友達をはたく暴行などで、カオリの少年非行補導前歴は6件に及ぶ。中学校にはほとんど行かず、飲食店に不定期に勤務し、複数の友人宅を転々としていた。自宅に帰ってくるのは、週に1回程度になっていた。事件を起こす前年には、さいたま家庭裁判所で児童自立支援施設送致に処せられ、国立きぬ川学院に約7カ月間入所している。事件を起こしたのは、同院を退所した数カ月後のことである。

 事件のあと、カオリは拘置所から毎週2回、母親に手紙を書いてきた。そこには、それまで母親も知らなかった娘の本心が、綿々と書かれていたという。母親に対する率直な質問もあった。小学校1年生のとき、なぜ母親は一度自分を捨てようとしたのか? 父親の家に預けられたとき、自分はただ遊びに行っただけで、母親がすぐ迎えにくると思っていた。その家では、食事も満足に与えられず、兄が冷蔵庫から卵を盗み、卵焼きを作ってくれたこともある。そんな事実も母親は、拘置所からの手紙で、初めて知ったという。

「考えてみると、カオリはずっと、頼れる父親像を探していたのかもしれません。小さい頃から、アイドル系の男の子には興味がなく、年上の強い男の子が好きだった。尾形にしても、鈴木さんにしても、どこかで父親を慕うような気持ちがあったのかもしれません」

 だが結果的に、母親の言う“頼れる父親探し”は、残虐な暴力を発生させることになった。

上條昌史

週刊新潮WEB取材班編集

2020年1月1日掲載

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