胴上げで思い出す甲子園暴動事件(昭和48年) 気の毒だった王さん【柴田勲のセブンアイズ】

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「王さん、早く逃げてください」

 胴上げどころではない。川上さんは三振を見届けると三塁奥の通路を真っ先に走った。私はセンターから全速力でベンチを目指した。みんな同じだった。

 気の毒だったのは王(貞治)さんだ。中には巨人ファンもいて、王さんは律義に握手をしていたが、その後ろにいた阪神ファンに倒されてゲタで顔を殴られた。

 私はちょうどベンチに戻ったところで、「王さん、早く逃げてください」と大声を出したことを覚えている。甲子園が暴動の場と化し大荒れとなった。末次(民夫)さんも棒で殴られ、国松(彰、コーチ)さんは眼鏡を壊され、森さんはマスクを奪われた。

 われわれはベンチ裏に脱出して帰りのバスに乗り込んだ。長嶋(茂雄)さんは10月11日の阪神戦で右手薬指を骨折しており、東京の自宅でテレビ観戦だった。長嶋さんはテレビに向かって、「逃げろ逃げろ」と叫んでいたそうだ。

 宿舎で祝勝会が始まった。ビール掛けが行われたのは畳の和室部屋だった。後で聞いたら、アルコールの匂いがなかなか消えなかったそうだ。

 いまの野球ファンはマナーを守るし、他チームにも温かい拍手を送る。いい時代になったと思う。

 ちなみにネットの高さは2・5メートルだったが、この一件を機に高くなった。

(注)73年は8月末で3ゲームの中に6球団がひしめく大混戦だった。だが最後は巨人と阪神に絞られた。

 阪神は2試合を残して64勝57敗7分、巨人は残り試合が1つで65勝60敗4分。阪神が1つでも勝てば、巨人が最終戦で勝っても勝率で巨人を上回る。阪神は優位に立ったが10月20日の中日戦(中日球場)をエース江夏豊で落とす。2対4だった。

 巨人は首の皮がつながった。決戦は雨で1日順延となったが、21日のミーティングで川上監督は「あすは絶対に勝つ。阪神が優勝するならもう勝っていた」と訓示した。午後4時19分、巨人が9対0のワンサイドでリーグ優勝。阪神ファンは持って行き場のない怒りと悔しさを巨人ナインにぶつけた。グラウンドに乱入したファンは約3000人と言われた。ナインは危険を感じて避難し、警官隊が出動する大騒ぎとなった。騒動はなかなか収まらなかった。阪神ファンと巨人ファンはお互いに罵声を浴びせ合って砂、座布団、ビールの空き缶などを投げ合った。約20人が逮捕された。

柴田勲(しばた・いさお)
1944年2月8日生まれ。神奈川県・横浜市出身。法政二高時代はエースで5番。60年夏、61年センバツで甲子園連覇を達成し、62年に巨人に投手で入団。外野手転向後は甘いマスクと赤い手袋をトレードマークに俊足堅守の日本人初スイッチヒッターとして巨人のV9を支えた。主に1番を任され、盗塁王6回、通算579盗塁はNPB歴代3位でセ・リーグ記録。80年の巨人在籍中に2000本安打を達成した。入団当初の背番号は「12」だったが、70年から「7」に変更、王貞治の「1」、長嶋茂雄の「3」とともに野球ファン憧れの番号となった。現在、日本プロ野球名球会副理事長、14年から巨人OB会会長を務める。

週刊新潮WEB取材班編集

2019年11月18日掲載

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