神津里季生(日本労働組合総連合会(連合)会長)【佐藤優の頂上対決/我々はどう生き残るか】

ビジネス 週刊新潮 2019年10月24日号掲載

  • ブックマーク

 労働組合があると、労働力の質が良くなり、生産性も上がる。だから組合員一人一人の賃金も増えてきたが、一方、組合の組織率は17%にすぎない。組合の存否によって、この20年で労働者間の所得格差は大きく開いた。連合はこの事態をどう打開していこうとしているか。

佐藤 この10月から、連合会長として3期目ですね。実は私、高校時代には組合の専従職員になろうかと思っていたことがあるんです。

神津 高校時代にですか。

佐藤 私は埼玉県立浦和高校出身で、当時、社会主義青年同盟(以下、社青同)に入っていたんです。ご存知の通り、社青同は日本社会党と支持協力関係にあり、党内にあった理論研究集団の社会主義協会に大きな影響を受けていました。

神津 確か、向坂逸郎(さきさかいつろう)さんがその代表でしたね。

佐藤 ええ。その後、いろんな紆余曲折があって、大学は同志社大の神学部に進みました。そこでキリスト教の洗礼を受けて社青同から離れた。そして外務省に入るわけですが、鈴木宗男事件に連座して、東京地検特捜部に逮捕されました。ある時、民主党の参議院議員だった峰崎直樹さんにそのお話をしたら、意気投合しました。彼は社会主義協会の大先輩なんです。

神津 峰崎さんもそうでしたか。私と同じ鉄鋼労連の出身です。

佐藤 峰崎さんは一橋大学出身ですよね。社会主義協会でも将来を嘱望されて、いずれは大学で教鞭を執り、理論的主柱になってほしいと思われていた。ところが現場に行きたいと労働組合の職員になる。そこで現実を見て、やはりソ連の体制はおかしいと思って、ケインジアンに転向したそうです。神津さんは東京大学から新日鉄(現・日本製鉄)に入られたわけですが、官僚になるとか、会社で役員になるとか、いろんな選択肢がある中、どうして労働運動を選ばれたのですか?

神津 これは正直なところ、巡り合わせなんですよね。

佐藤 東大は教養学部の後期課程ですよね。ご専攻は?

神津 アジア科です。もっとも私、野球部のマネージャーをやっていて、1年留年しています。

佐藤 でも進学の振り分けでは相当高い点がないと行けませんよね。卒業論文は何でしたか?

神津 当時、アジア主義に興味を持っていまして、孫文の辛亥革命を支援した宮崎滔天(とうてん)をはじめとした群像についてです。

佐藤 ど真ん中ですね。私はひねくれていて、大川周明の本を書いたことがあります。

神津 存じておりますよ。

佐藤 鈴木宗男さんの拓殖大学での卒論も宮崎滔天ですよ。

神津 そうなんですか。鈴木さんとは、東日本大震災の追悼式典の時に、いつもお隣になる。国会議員に戻られたから、これからは違うのでしょうが。

佐藤 アジア主義から労働運動というのは、どこかで繋がっています?

神津 私の中ではある部分では繋がっているのですが、組合役員になったのは、先ほど申した通り、巡り合わせでして、入社してまず配属されたのが、姫路の広畑製鉄所でした。

佐藤 幹部候補社員として入っても、かなり厳しい現場に回される。ヘルメット酒が有名ですよね。

神津 そうです(笑)。赴任初日にヘルメットでお酒を飲まされる。1年先輩が手ぐすね引いて待っているわけです。

佐藤 それですごいところに来てしまった、となる。

神津 ええ。でもそこで3交代勤務を2カ月弱やらせてもらったことは、とてもいい経験になりました。広畑には3年ちょっとでしたが、そこは大学卒にも声を掛けて、労働組合に参加させ、いろんな活動に巻き込んでいく職場だったんですね。

佐藤 興味深いですね。

神津 そのあとは本社勤務ですが、配属された部署で、そろそろ持ち回りの役員を出さなくてはならなかった。見渡すと若手は自分だけ。それで組合へ行くことになりました。でも、やってみると非常に面白かったんですよ。そのうち専従役員にならないかと声を掛けられ、その時はもう二つ返事で引き受けました。

佐藤 若い時にはタイの大使館勤務もされていますよね。

神津 当時はまだ全民労協の時代で、そこから大使館に派遣する枠組みがあり、それに誘われたのです。私としてもアジア科にいたから、もう一回勉強するいい機会だと思った。

佐藤 当時の大使は岡崎久彦さん?

神津 前半が岡崎大使で、後半が藤井宏昭大使でしたね。ともに大変お世話になりました。

佐藤 私も、岡崎大使にはとてもお世話になりました。当時のタイ大使館には同期もいました。

神津 いろいろ接点がありますね。当時は6年専従をやったら職場に戻るというのが大学卒本社労組役員のパターンだったのですが、戻って新日鉄労連全体の役員になった。その直後に、初めて会社からベアの回答が出なかった1995年の春闘がありました。それがとても悔しくて、この世界でとことんやっていこうということになったんです。

次ページ:民主主義の学校

前へ 1 2 3 4 次へ

[1/4ページ]