「パリ人肉事件」佐川一政のいま、ドキュメンタリー映画に出演の実弟が初告白

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兄は劣等感の塊

:兄から直接「人を食べたい」なんて聞いたことはなかったですが、兄はフランスに渡る前にも強姦未遂事件を起こしていましたから。実は和光大学から関西学院大の大学院に行ったのも女性のためなんです。母がお茶を習っていたんですが、そのお仲間が大阪からたまに上京していた。そのお嬢さんが綺麗な方で、兄が見かけて好きになっちゃったんですよ。だから突然、「関学に行きたい」と言い出したんです。兄は本当に女好きですが、相手にはされない。彼は劣等感の塊でもあった。子供の頃から虚弱体質で、体が小さかったですからね。勉強もできたわけではなかった。高校は鎌倉高校へ行きましたが、今でこそ進学校として有名ですが当時はそれほどでもなく、大学は和光大学の1期生。1つ下のぼくも、それほどできたわけではありませんが、慶應志木高校からエスカレーターで慶應大に進学したので、ぼくへの嫉妬もあったようです。そんな兄がパリに渡ったわけです。

――事件以来、佐川家は様々な媒体の取材攻勢を受ける。

:ぼくはすでに実家を出ていましたが、色々なところから電話があったそうです。ただ実家は、同じマンションの4階と8階に部屋があったので、記者が来そうな部屋には近づかないようにしていたそうです。「うちに入会すれば楽になりますよ」といった宗教の勧誘はしつこくあったそうです。「20~30の団体から勧誘された」と母が言っていました。また、親戚からは「なんてことをしてくれたんだ!」と絶縁もされました。

――一政は帰国すると、精神病院に入院させられた。そこには見舞いに行ったのか。

:2度ほど、好きなアイスクリームを持って会いに行きました。病院内は牢獄のようで、扉が開くと、いろんな患者が近づいて来るのが不気味でした。ですから、退院した時は、純粋に良かったと思いました。

――精神病院で一生を過ごすと思われていた一政だが、精神病院は「これ以上治療する手立てはない」として退院させたのだ。だが、そこで週刊新潮は当時、「気をつけろ『佐川君』が歩いている」(85年11月7日号)という記事を掲載した。人を殺めて、しかも食べてしまった佐川君が、無罪放免となってシャバに出ているのを、世に警告したのだ。

:覚えていますよ。記事には驚きましたが、まあそう考える人もいるだろうなと思いました。ですから腹は立ちませんでしたよ。むしろ、腹が立ったのは「FRIDAY」ですよ。ずいぶん後になってからですが、兄貴と2人で藤沢の演奏会に出かけた時に、追っかけられたんです。マズいと思って、咄嗟に兄貴をタクシーに乗せて逃がして、ぼくが応対したのですが、その時に記者に「お兄さんはヒョロヒョロの体で頭が大きいから一目でわかりますよ」と言われた時にはカチンときましたね。いくら何でも、他に言い方があるだろうと思って。

――89年には、幼女4人を次々と手にかけた宮崎勤事件が発覚する。そこで一政にコメンテーターとして白羽の矢が立った。

:あの事件で、兄が表立って活動するようになった時は、正直いい気持ちはしませんでした。「なんで、そんなことするの」と思っていました。ちゃんとした報道番組だったらまだしも、ワイドショーですからね。「あんな番組に出ないで」と注意したこともあります。小説や漫画で自分の事件を書き、AVにまで出演しましたからね。どうしてそうなっちゃうのだろうとは思いましたが、兄貴にそんなことを言ってもケンカになっちゃいますし、彼としては稼がなければいけないという部分もあったでしょうから。実際、当時は結構稼いでいたそうです。

――猟奇事件は、そうそう起こるものではない。一政の需要も、そう長くは続かなかった。

:それでも父からは、仕送りがあったようです。ですから収入面で厳しくなったのは、父が亡くなってからです。父は最期まで兄の事件のことは信じていないように振る舞っていましたが、心のどこかで事実と認めていた感じでしたね。父が亡くなったのは05年1月4日。その看病疲れもあって、母は翌日に亡くなりました。ですから、葬儀は合同葬儀という形で行われました。喪主はぼくで、父の会社の社葬という形にしてもらいました。兄は顔を出してはいけないということになり、別室からモニターで見ていました。しょうがないですよね。会社の株主にも迷惑がかかりますし。

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