追悼「勝谷誠彦さん」 週刊新潮で嘆いたニッポンの「バカ基準」

国内 社会 週刊新潮 2016年11月10日神帰月増大号掲載

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バカに媚びるな

 バカ基準が突き抜けると次のバカを生む。ATMの「暗証番号に誕生日などはおやめ下さい」という表示などは、まったく余計なお世話である。敢えてそうしているひとだっているだろうよ。もう、実際の入力までにいくつもそういう表示が出る。「バカ基準によって、大切な時間が使われている」ということだ。バカはバカでそこで騙されればいいのだ。自業自得である。なぜ、良民常民までが、バカの時間につきあわなくてはいけないのか。

 詐欺が連発すれば「これだけ言われているのに、まだ騙されている『愚民』への世界の嘲笑」と、タイトルまでちゃんと考えてあげて、私が「週刊新潮」に書く。国を出れば、もっとシビアなところで自分を護らなくてはいけない。そんなもんでとられるカネは授業料だと思っておけ。

 うん、これがかなり私の「バカ基準」に近いのかも知れない。朝日新聞などは「良民常民基準」なのだが、そんなにみんな賢くない。「バカ」とはバカにしているのではなく「こんなもんなんだよ」だ。そこと比べてどうなのかなあ、という意識は私の中にある。ところが、朝日などはいつもは違うくせに自分を持ち上げるところでこっちを持ちだして来る。だから「バカ基準」。長い原稿なので書いているうちに揺れてきたなあ。決して「バカ」をバカにしていないという自覚はあったが、かくも愛して、こだわっていたか。

「バカ基準」をいろいろ考えているのが、いちばん「バカにつきあっている」のではないか。ひとはそれぞれ自分で身を守るのが原則だ。たとえば私が知る海外の国々には「バカ基準」はない。「バカなひとびと」はいて、バカにされているだけだ。しかし日本国では「バカなひとびと」と呼ぶのはタブーである。その「ひとびと」の基準が、すべてに当てはめられているのが「バカ基準」ではないか。

「バカ基準」という言い方は自分でも品がないと思う。しかし、若干、真っ直ぐだとも思う。表立って使うことはなくとも「でもこれ、バカ基準だよね」と心の底で思うひとびとが出てくれば面白いなあと、コラムニストは考えるのである。

 基準線を引くのが、大マスコミであるのは力を持っているから当然だが、私たちの心の中でも引くことができればいいのではないか。「これ、バカ基準だよね」という会話はなかなかしにくいのかなあ。「どうして、こんなことをいちいちチェックするの」という思いは日々、あるだろう。それこそが「バカ基準」への入口なのである。

 本誌(「週刊新潮」)でもそうだ。誰かが「それ、おかしいんじゃないの?」、もう一歩踏み込んで「バカに媚びすぎじゃない?」。そのひとことが文化文明を維持していくのである。敢えて、言っておくことにする。

勝谷誠彦(かつや・まさひこ)
1960年、兵庫県生まれ。私立灘高校を経て早稲田大学卒。文藝春秋社に入社し記者として活動。現在は小説家、コラムニストとして活躍。食や旅のエッセイで知られる。

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