追悼「勝谷誠彦さん」 週刊新潮で嘆いたニッポンの「バカ基準」

国内 社会 週刊新潮 2016年11月10日神帰月増大号掲載

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還暦が未成年に見えるか!

 だが、この程度ならまだよかった。地下鉄ホームには白線どころか、スマホを覗きながら歩くバカの目の端にも入るようにと紅白の注意喚起シートを貼り付けた。大マスコミはベビーカー事故を受けて、などと報じたが東京メトロは歩行中のお客様の線路内への転落防止と謳っている。ことほど左様にバカのレベルが落ちてきている。

 また、私が歳をとって丸くなったことを特にコンビニ各社は感謝するべきだ。「20歳以上である」のボタンを押せとゆる口のしんどいバイトが言う。見たらわかるだろうと。それ以前に、私が現れたとたんに「あっ、カツヤさんや」とかビビッているのである。それでもポチッとな、をする。何をさせられとんねん、たかだかコンビニのチェーンに、だ。

 以前、梅沢富美男さんとその話をしたことがある。「あたしが、女に見えるというなら許すわよ。だけど、この還暦の私が、どこが未成年なのよ。言ってみなさい」とタンカを切ったそうだ。さすがだが、それでもポチッとせざるをえない。気の毒なバイトの少年たちは責任をとれないのだから。

 長くなった。「バカ基準」としてはいちばんわかりやすいと思ったので。誰も責任をとりたくないのである。だからいちばんバカに責任をとらせることなど無理だと知っておいた方がいい。

 みなさんがいちばん毎日触れているというか、いやなシャワーを浴びているのが、鉄道の放送だろう。「白線の内側までお下がり下さい」「入ってくる列車の風圧に押されることがあるので、気をつけて下さい」。そんなもので死ぬ奴は死ねばいいのである。社会におけるコストとしては安くなっていいと私は考える。まさにバカを排斥しないバカ基準の典型だろう。

「淘汰」をタブーだとしたのが「バカ基準」の原点だ。どんな動物の社会でも「淘汰」はある。私にとってはどうでもいいのだが、人類は文明を築いてきて、弱者を助ける仕組みを作った。それはそれであってしかるべきだろう。しかし通常の社会に適応すると考えて動いている連中に、どこまで手をさしのべるべきか。あまたの国を歩いてきたが「助けて」と言う人々には優しい。しかし一人前の社会人として出勤する連中に「風圧に気をつけて下さい」とは言わない。過剰と言うべきである。

 やや外れているようだが実は外れていない。「バカ基準」の基本はそのあたりにありそうなのである。今の日本国は「誰でも手をさしのべて助けてあげる」ようになっている。それははたして、社会全体として幸せだろうか。そのために「みんなが平等だよ」と基準をバカのレベルに下げている。よろしくない。バカにはバカと言ってあげる方が、相手の人生にとってもよろしいかと私は思う。

 バカというのはあくまでもこちらの価値観であって「なにくそ」と思えば、私たちにバカだと思われない生き方をすればいいのである。私はそれを大いに認めるものであって、日本史の上でもかかるリベンジをしてきた英雄は多い。

 バカという言葉を蔑視だと考えるのがいけないのだ。「あいつバカだね」と私は子どものころから言われてきたが、最大の賛辞だと考えていた。本当のバカは突き抜けている。ところがその正しいバカの使い方を今の日本国はできていない。

「ダメな意味のバカ」をまず認識することだ。それをひとつのラインとして「バカ基準」を作る。ひとつ提案するなら「あいつ、ライン以下のバカだね」ということは、このことを意味する。「あいつバカだね」のある意味の賛辞とは違う。この「バカの意味」についてはどんどん論議をしていただきたい。

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