「羅生門」「七人の侍」「砂の器」脚本家、橋本忍さんの構成力(墓碑銘)

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 この人の存在なしに、今日の日本映画の発展はなかった。故人を偲ぶ週刊新潮のコラム「墓碑銘」から、橋本忍さんの功績を振り返る。

 映画は監督の名前で語られがちだが、映画の設計図である脚本があってこそ。

 橋本忍さんは戦後の日本映画界を代表する脚本家だ。黒澤明監督が「羅生門」により世界で注目されるようになったのは、橋本さんの脚本が原点である。芥川龍之介の「薮の中」を原作にした脚本に黒澤監督は興味を示し、映画化を望んだ。

 黒澤監督は自宅に橋本さんを招いた。この脚本ではちょっと短いと指摘する8歳年上の黒澤監督に、橋本さんは「羅生門」を入れたらどうでしょうと提案する。

 こうして生まれた「羅生門」は公開翌年の1951年、ベネチア国際映画祭で日本映画として初めて最高賞の金獅子賞を獲得した。

「黒澤監督は最終的には自分で脚本をまとめますから、橋本さんは共作者の立場です。人間が生きるとはどういうことかといった骨太のテーマを、観念的にならずに表現できる橋本さんを黒澤監督は頼りにした」(映画評論家の白井佳夫さん)

 18年、兵庫県鶴居(つるい)村(現・市川町)生まれ。父親は料理店を営み、旅芸人の一座を呼んで興行も打った。

 38年に応召したが粟粒(ぞくりゅう)結核が見つかり、傷痍軍人療養所に入る。病床で隣の人が貸してくれた映画雑誌で初めて脚本を読んだ。日本で一番偉い脚本家は誰かと尋ね、伊丹万作だと聞くと、療養所を題材に3年がかりで脚本を書き、大胆にも伊丹さんのもとへ送る。丁寧な返事が届き、門下に入るが、伊丹さんは46年に早世してしまう。

 黒澤監督の助手として活躍した野上照代さんは言う。

「橋本さんは実力があったうえに運も強かったのです。結核を生き延び脚本を学んで、作品が黒澤さんの手に渡った。黒澤さんと出会ってからは、意図や狙いをつかむことができた人です」

「生きる」や「七人の侍」の共同脚本でも登場人物を徹底的に彫り込んだ。

 黒澤監督作品ばかりではない。野村芳太郎監督の「張込み」「砂の器」、森谷司郎監督の「日本沈没」「八甲田山」、岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」、山本薩夫監督の「白い巨塔」などジャンルは実に広い。テレビドラマでも「私は貝になりたい」が絶賛された。

「映画は理屈ではなく大衆とともにあると考えていましたね。ロケハンで探してきた景色を喜んでくれたり、現場が好きでした。生の人間を描こうという思いを感じました」(「砂の器」などの撮影を担当した川又昂さん)

「『砂の器』や『八甲田山』は下手に作れば重苦しくなります。構成を考え抜き、メリハリがあるので、作品のテーマが無理なく伝わりヒットしました」(映画評論家の佐藤忠男さん)

 松本清張は橋本さんに構成を立ててもらって小説を書くことを打診したほどだ。

 91年、妻に先立たれる。故郷思いで、2000年には市川町の文化センター内に橋本忍記念館が開かれた。

 06年に『複眼の映像―私と黒澤明』を上梓。今年4月に100歳を迎えてなお、小説を書き続けていた。

「毎日2時間ほど書斎でワープロに向かっていました。疲れるのが心配でも声をかけにくいのです」(長女で脚本家の橋本綾さん)

 7月16日には朝日新聞の取材を受けていた。

「私も同席してほしいと橋本さんに呼ばれましたが、幼い頃のことなど、3時間ほど話してくれました。帰る時の握手ではなかなか手を放しませんでした」(野上さん)

 7月19日、肺炎のため、100歳で逝去。

「父は私達にこうしなさいなんて全く言わず、仕事が第一で家族にありがとうも言いません。そんな父が私と妹を呼んで、良い父ではなかったけれども、悪い父でもなかったと思う、と言いました。亡くなる少し前のことです。本当にその通りの父でした」(綾さん)

週刊新潮 2018年8月2日号掲載

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