「ネコはなぜ小判の価値がわからないのか」 養老先生はこう考える

ビジネス2017年12月8日掲載

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「朝三暮四」という四字熟語はご存知だろう。サルに「ドングリを朝3つ、夕方4つやる」と言ったら、サルはイヤだと言う。そこで「じゃあ朝4つ、夕方3つならどうだ」と言うと、「それでいい」とサルが答えた――目先の違いにとらわれて、実際は同じであることに気付かないサルを愚かだとヒトは考える。

 しかし、よく考えてみよう。

「朝3暮4」と「朝4暮3」は本当に同じと言っていいのだろうか。

 ヒトは「合わせて7つだから一緒じゃないか」と考える。でも、もしもサルが「朝食重視派」だったなら、「朝3」と「朝4」の違いは大きいかもしれない。

 ヒトは往々にして、いろんなものを「同じ」だと考える。動物は感覚をもとに動くので、細かな「違い」に敏感で、「同じ」だとは考えない。 

 実は、ここにヒトと動物の本質的な違いがあらわれている、と指摘するのが養老孟司先生。養老先生は新著『遺言。』の中で、ヒトと動物の違いについての考察を進めている。そこで重要なポイントの一つが「動物はイコールを理解できない」ということ。この違いから、ヒトと動物は別々の道を歩むことになったというのだ。以下、同書をもとに解説してみよう(引用は『遺言。』より)。

 養老先生は、「動物の意識にイコール(=)はない」という。

「小学校の算数で3+3=6などと習う。これがわからなかった人はほとんどいないであろう。この程度の計算なら、チンパンジーだって簡単にできる。でもそれができるからチンパンジーが『=』つまり等号を理解しているかというと、じつは理解していない。私はそう考えている」

 たとえばある方程式を解いたら「a=b」となったとしよう。人は「aとbは同じなんだな」と大抵は理解する。でも、それなら「b」という字は要らないじゃないか、と考える人もいるのだ。だって見るからに同じものではない。

 ヘリクツを言うな、と言うかもしれないが、実際にここでつまづくヒトもいるのだ。

「知り合いの早稲田大学教授、池田清彦は中学生の時に、はじめて文字式の出てくる教科書を読んで、わからなかった。しばらくしたら突然わかって、3年生までの教科書を全部読んでしまったという。わかるまでの池田はドウブツ的だったのである。『=』が完全には理解できていなかったからである」

 a=bならば、b=aということも、大抵のヒトはわかる。これを数学基礎論では「交換の法則」という。これを動物は理解できない。

「ネコがキュウリをくわえて、サルがウサギの死んだのを拾ってきて、あそこの市場で交換していた。そういう状況を見たことがありますか」

 そう、動物は「=」が理解できないから、交換に向かない。

「『交換』が理解できると、次に何ができるか。交換にさらにイコールを重ねることが可能になる。これを等価交換という。そのための道具がお金である。お金を使うと、あらゆる商品がお金を介して交換可能となる。あなたの労働が給与やアルバイト代になり、それがお昼のカレーになったり、中古のパソコンになったりする。これって、考えようによっては、メチャメチャだと思いませんか。なぜ労働がパソコンに変化するのだ。

 動物はこれが理解できない。うちのまる(飼い猫)に1万円札を見せると、しばし臭いを嗅いで、すぐに寝てしまう。これを昔の人は『猫に小判』といった。動物はお金つまり等価交換をまったく理解しないことを、昔の人だってよく知っていた」

 このように本来は別のものでも「同じ」にしてしまうのが人間の意識の特徴だ、と養老先生は同書の中で解説をしている。

 この「同じ」にしてしまうという意識があるからこそ、私たちはいろいろなモノを「同じ」ジャンルに分類することもできる。「リンゴ」「ナシ」「ミカン」は「クダモノ」だ、「アジ」「イワシ」「マグロ」は「サカナ」だとヒトは考える。これもまた動物から見たらずいぶん乱暴な話である。

 このように「同じ」モノをまとめていった頂点に君臨しているのが「神様」だ、というのが養老先生の見方である。『遺言。』で展開されているのはかなり壮大なスケールの思索なので、漱石先生の飼い猫はいざ知らず、動物には理解不能な話であろう。

デイリー新潮編集部