稀代の政商「小佐野賢治」国際興業社長 古寺の軒先が極貧の原風景

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■60億円で角栄を総理にした!

 彼がホテル事業に進出したのは、東急グループ総帥の五島慶太から箱根の強羅ホテルを購入したことがきっかけだ。熱海ホテルや山中湖ホテルに続き、ハワイのホテルも買収。さらに五島から東都乗合自動車を譲渡され、バス事業にも乗り出した。22年、東京・八重洲の一等地に本拠を構え、社名を「国際興業」とした。

 仕事の現場での彼は「神」のような存在で、怖いほどの威圧感があった。国際興業で小佐野の秘書を務めていた人物が述懐する。

「とにかく、頭が切れる方でした。手帳を持たず、メモも取らないけど、会社の業績やグループ各社のデータも全て頭に入っているんです。『あの時の数値はどうなった?』と聞かれ、すぐに答えられないと機嫌が悪くなるので、周りはいつもピリピリしていました」

 大下氏はこう評する。

「人間関係において独特の嗅覚があり、権力を取り込む才覚に長けていた。ここぞ、と思う時には金を惜しまず注ぎ込み、信頼も勝ち得ていったのです」

 それが遺憾なく発揮されたのが、後に“刎頸の交わり”とまで言われた、田中角栄との関係構築だった。

「角栄と小佐野の最初の接点を作ったのは、共通の知人だった弁護士です。ロッキード事件での角栄の検面調書には、『昭和22~23年頃、〇〇先生から、私と同学年であり、将来のある青年実業家として小佐野氏を紹介してもらった』旨、記されていました」(同)

 小佐野と角栄は事業で手を組む。25年、代議士になりたての頃、角栄は、長岡鉄道の社長に就任。バス部門の拡充に際して国際興業から二十数台の車両の提供を受け、その後、長岡鉄道は「越後交通」となる。これが越山会の母体となった。

 そして47年7月、自民党の実力者となっていた角栄は、満を持して総裁選に名乗りを上げる。大一番に臨む彼のため、小佐野が使った軍資金は60億円ともいわれた。これを力の源泉とし、角栄は福田赳夫を破り、ついに総理の座を手に入れた。

 そんな小佐野の私生活はいかなるものだったのか。25年、彼は旧伯爵家の堀田英子さんと結婚している。堀田家は千葉・佐倉11万石の城主として栄えた名家で、英子さんは「女子学習院、戦後最高の美女」と謳われるほど美しく、華族の令嬢を望んだ小佐野は一目惚れ。戦後、没落する華族の中で窮地に陥った堀田家を救ったといわれたが、一方で成り上がり者が家柄をカネで買ったとも囁かれた。

 世田谷・野毛の自邸は「迎賓館」と呼ばれ、5000坪の敷地にバラ園があり、パーティもよく開かれた。側近が食事に招かれると、家政婦にもてなされるが、英子さんが顔を見せることはなかったという。

「奥様とは家庭内別居の状態で、冷ややかな関係が続いていたようです」(元秘書)

 子どもを授からなかった小佐野は、弟たちを可愛がっていた。長弟の栄氏を国際興業の社長、次弟の定彦氏を専務にしたが、56年に定彦氏が急逝し、翌年には栄氏を肝臓がんで亡くす。小佐野は憔悴した。

 彼のもう一人の弟・政邦氏の孫にあたる匠氏は、幼い頃、国際興業社長を継いだ政邦氏のもとで育った。

「朝6時半には賢治おじと祖父は出社する。賢治おじは子どもが好きで、私を自分の家へよく連れて行ってくれた。彼は役員たちを集めては食事したり、オールド・パーを飲みつつ花札をしていました。私は『賢治おじちゃま』と呼び、禿げ頭をペチャペチャ叩いたりしていて、賢治おじも、かくれんぼなどをして遊んでくれた。優しい人でした」

 帝国ホテルの株を買い占めていた小佐野は、60年、ついに帝国ホテル会長に就任。長年の夢だっただけに、連日のようにホテルへ出社し、精力的に仕事に取り組んでいたという。

「私はまだ4歳でしたが、子ども心にも元気そうに見えた。最後に会ったのは61年9月、その日は母に連れられ賢治おじの家へ行きました。2階で寝ていたおじは1階の居間まで降りてきて、木箱に入った千疋屋のメロンをくれたのです」

 その年の夏、小佐野は膵臓がんの告知を受けた。手術後は仕事に復帰したが、10月に病状が悪化し、入院先の虎の門病院で逝去。69年の波乱の生涯を閉じた。

 小佐野亡き後、国際興業は経営不振が深刻化し、サーベラスの傘下に入る。騒動の中で小佐野一族の持ち株は、4代目社長の隆正氏のものとなり、サーベラスが共同出資の形で再建をスタート。隆正氏と未亡人の英子さん以外の一族は追い出されることになった。一族間のやりとりは封印されていたが、2013年、匠氏が国際興業に入社すると実情が明らかになった。匠氏と家族3人は目下、サーベラス傘下に入った際の株のやりとりをめぐって、隆正氏らに対し110億円の損害賠償請求訴訟を起こし、骨肉の争いは今なお続く。

 小佐野が築いた資産は数兆円といわれるが、後を託す子どもに恵まれなかった生涯は孤独だったに違いない。だが、昭和史に刻んだ“功績”を大下氏は讃える。

「昭和という時代には闇があり、そこで小佐野は、“表の角栄”と“裏の児玉氏”をつなぐなど、フィクサーとしての力を発揮した。政、財、闇の世界の全てとつながっていた彼は、時代が生んだ怪物。今後、彼ほどスケールの大きい『政商』は二度と現れないでしょう」

ワイド特集「時代を食らった俗世の『帝王』『女帝』『天皇』」より

週刊新潮 3000号記念別冊「黄金の昭和」探訪掲載

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