相手のプライドをくすぐる、田中角栄の“殺し文句”テクニック

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 昨年は、田中角栄再評価が頂点に達したとも言える年だった。2015年に刊行された『田中角栄 100の言葉』が好調な売れ行きを示したのに加えて、石原慎太郎氏の小説『天才』も大ベストセラーとなっている。

 このブームに関しては、すでに様々な分析がなされているが、確かなのは実に魅力的なエピソードが多く紹介されている点だろう。

 角栄の魅力を「殺し文句」という点から見つめ直したのが、コピーライターの川上徹也氏だ。川上氏は古今東西の有名人の「殺し文句」を分析、解説した新著『ザ・殺し文句』の中で、角栄に関しては他の誰よりも多く行数を割いている。その中から、2つのエピソードを紹介してみよう(以下、同書をもとに要約)。

■「白紙を持ってきた。どうか思うとおりの要求をここに書き込んでくださいよ」

 1961年7月、池田首相は内閣改造で田中を自民党政調会長に任命した。

 当時、前内閣から引き継いだ最大の懸案だったのが、日本医師会との間で対立していた同年4月の国民皆保険開始にともなう医療費値上げの問題である。

 日本医師会は当時7万人以上の会員を抱える自民党の有力圧力団体で会長は武見太郎。豪腕でケンカ太郎の異名を持つ人物だ。

 武見は、政府の国民皆保険政策に対し,開業医の立場を強力に主張しており、国民皆保険に対して、「医療費の値上げを認めなければ、8月1日に医師会から保険医を総辞退する」と自民党を脅していた。

 このような状況の下、田中は就任してすぐに武見と会談を設定する。場所は相手のホームグラウンドともいうべき医師会館。

 そこで田中は、以前から提案していた厚生省案をみせたが、武見は「話にならない。出直してもらいたい」と一蹴した。

 その1週間後、田中は再び医師会館に乗り込む。交渉期限の前日、あらかじめ池田首相には「交渉は決裂するかもしれません。覚悟しておいてください」と仁義を切ってからの交渉だったという。

 会長室に入ると、田中は懐からいきなり白紙に「右により総辞退は行わない」とだけ書いた便箋を取り出すと、こんな「殺し文句」を放った。

「武見さん、わたしら素人で、医療のことはよくわかりません。ですからわたしは、こうして白紙を持ってきた。どうか思うとおりの要求をここに書き込んでくださいよ。ただし、政治家にもわかるように書いてくださいね」  

 すると武見は、その便箋を奪い取って要求を書き始めた。

 ただし、 武見はこの時、あえて具体的なことは書かなかった。具体的なことを書いてしまうと、田中を困らせることになる。

 白紙を渡すということは自分を信用してくれているということ。あえて抽象的なことを書くことで田中への信頼を返したのだ。

「このメモさえあれば勝負できます。任せてください」 

 そう言うと田中は部屋を出た。

 その後も様々な経緯はあったものの、結局、武見が書いた原則を押す田中案でまとまり、日本医師会から保険医の総辞退という事態は避けることができたのである。

 武見はこの時、知人に田中のことをこう評したという。

「あいつは若いのに信用できる。馬鹿のひとつ覚えみたいなやり方はせず、相手によって戦法を変えてくる。必ず自分の言うことを通す天分を持っている」

■「日本に帰ったら殺されるかもという決死の覚悟で来たんだ」

 その「戦法」を外交の場で発揮したのが、日中国交正常化交渉である。

首相となった田中は中国に貿易相手国としての将来性を感じ、内閣をつくったばかりで人気があるうちに、この難題を解決したいと考えていた。

しかし、中国に乗り込んだ後、多少のボタンの掛け違いもあり、交渉が進まない。交渉相手のトップ、周恩来の頑なな態度に、田中は思わず声を荒らげて、こんな殺し文句を口にする。

「私が飛んできたということは、仲良くしようとする表れじゃないか。だから、わたしは、こうして北京ヘやってきた。あなたが東京へこられたのではなく、わたしが、やってきたんだ。日本に帰ったから殺されるかもという決死の覚悟で来たんだ」

 この迫力には、さすがの周も小さくうなずくしかない。

 空気が変わったとみた田中はここで違う角度から話をかぶせた。

「わたしも戦争中、陸軍二等兵として満州に来ました。いろいろご迷惑をおかけしたかもしれません。しかし私の鉄砲は北(ソ連)を向いていましたよ」

 田中は、当時中ソ関係が冷えきっていたことを踏まえて、ジョークを語ったのだ。

 これには周首相はじめ中国側も思わず笑ってしまった。さらに田中は続けた。

「もしあなたと話がつかなかったら、日中関係は向こう何十年も救えません。言葉の揚げ足をとるのではなく、本題の議論をしましょう」

 こうして会談は具体的な項目についての交渉に移ったのである。

■殺し文句の法則とは

 こうした角栄の殺し文句を、川上氏はこう分析する。

「医師会に対しての『白紙を持ってきた』というのは、『下手に出る』というテクニックを使った殺し文句です。これで相手のプライドをくすぐり、交渉を前に進めることができた。一方、周恩来に対しては、相手に本気でぶつかったことが奏功したといえます。これに限らず、角栄さんは、さまざまな殺し文句のテクニックを持っていた稀有な才能の持ち主だと言えるでしょう」

 もちろん、死後、神格化されたという面も否定はできないだろうが、それでもそのエピソードから学べることは多そうだ。

デイリー新潮編集部

2017年1月23日掲載

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