東京駅 開業当初、駅弁屋は一軒もなかった 東京駅「100年」人と歴史とトリビア(1)

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 開業100年を迎えた東京駅は、現代史の縮図のような場所である。震災に遭い、テロが起き、空襲で焼け、占領軍に使用され……。だが一方で、わかって楽しい、知って得する秘密のトリビアも多々。そんな東京駅の多彩な顔を、交通ライターの杉崎行恭氏が一挙解説!

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 2014年12月20日、東京駅は開業100周年を迎えた。大正3年(1914年)から刻まれてきた東京駅の1世紀という時間には、日本の現代史がそのまま重なっている。

 一昨年には赤レンガの丸の内駅舎が復元され、観光名所としても賑わう東京駅は、時代ごとに実に多様な顔を持つ。

■敷地はかつての江戸城内

「あれは、この先の小さなドアの脇にありますよ」

 駅員にそう教えられて足を運んだのは、八重洲北口改札を出てデパート「大丸」に突き当たったところを左折した先、ビルから外に抜ける、目立たないドアがある場所。その脇の壁に『北町奉行所跡』の碑がはめ込まれていた。

 東京駅の敷地の大部分は、「丸の内」の地名でもわかるように、江戸時代で言えば外堀の内側、つまり江戸城内にあたる。外堀の東にひしめく日本橋や呉服橋付近の商人街と城内を結んだのが八重洲橋で、橋の西側には、あの遠山の金さんこと遠山金四郎が奉行を務めた北町奉行所があったのだ。

 しかし、後述する東京駅建設の際に、八重洲橋は撤去され外堀も埋められた。要するに東京駅は商業地と江戸城の境目に建てられたのだ。そんな歴史を伝えるように、丸の内駅舎中央口の正面には八重洲橋の礎石が2つだけ置かれている。

 ところで「八重洲」の名は、よく知られるようにオランダ人ヤン・ヨーステンの名に由来する。慶長5年(1600年)にウィリアム・アダムズ(三浦按針)とともに臼杵(うすき)(大分県)に漂着したオランダ船の船乗りで、のちに幕府に外交顧問として仕え、現在の八重洲口付近に屋敷を持ったという。オランダ政府寄贈のヤン・ヨーステン記念像は、八重洲地下街で見ることができる。

■ドイツ人技師の提案で

 明治維新後、大名屋敷地だった丸の内はわずかに陸軍の兵舎があるばかりで、寂しい野原に変わり果てていた。

 この地の買取りを政府から迫られた三菱の岩崎弥之助は「竹を植えて虎でも飼うか」と嘆いたという。

 ここに中央停車場を置こうという計画が持ち上がったのは明治20年代。当時、東海道本線の起点は新橋で、東北本線は上野。その2つをつなぐ数キロの間に鉄道はなく、まだ環状線になっていなかった山手線が迂回するように品川~新宿~田端の間を結ぶだけだった。だが、新橋~上野間には家屋が密集し、政官界のうるさ型の屋敷も多く、容易には手をつけられなかった。帝都の都市計画自体ももたついて、両駅の接続は大正時代にズレ込んだ。このため明治の日清・日露戦争では、首都東京が鉄道輸送の隘路(あいろ)になってしまったのだ。

 そうしたことを予見してか、「新橋から上野までの区間をすべて踏切なしの高架線とすべし」と、明治20年(1887年)に来日して鉄道建設の顧問を務めていたドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテルは進言していた。彼が提唱した赤レンガを延々と積み上げる様式は、ベルリンの市街鉄道をモデルにしたもので、「東西の幹線を接続する中央停車場も、ヨーロッパのターミナルのような行き止まり式ではなく、列車が通過できる形の駅が望ましい」とした。結果的にこれが採用され、新橋~上野間には見事なレンガアーチの連続高架線が今も残る。ルムシュッテルのプランを引き継いだドイツ人技師フランツ・バルツァーは、東京駅について寺の屋根を乗せたような日本趣味の駅舎を提案したが、のちに設計を手掛けた建築界の大御所・辰野金吾に、西洋人の女が着物を着たような「赤毛の島田髷(まげ)」と酷評されたという。

■気品を保つために

 その辰野によって設計された赤レンガの丸の内駅舎は、明治41年に起工され大正3年に完成する。地上3階、地下1階。横幅は335メートルもある城壁のような姿で、日本の鉄道建築のなかでも極めて異様な駅舎となった。中央部には皇室専用の玄関を設け、一般客の乗車は南口、降車は北口に振り分けられていた。当時、商業地として繁栄していた八重洲側には一切の出入口がない一方、まだ雑草が茂る皇居方面に向けて、2つのドームを戴いた赤レンガ駅舎が威容を誇っていた。

 東京駅では開業当初から、大日本帝国の中央停車場の気品を保つべく弁当は販売されず、食堂も簡素なものが1軒あるだけだった。

 これは戦後の昭和27年(1952年)まで続き、その間に横浜や大船などの駅弁屋が大繁盛した。もっとも今では、構内の「グランスタダイニング」や「グランルーフ」に多数の飲食店が並んでいる。

 東京駅は竣工9年目の大正12年9月1日に関東大震災に見舞われる。が、被害はホームの屋根が落ちたぐらいで済んだ。

 赤レンガの丸の内駅舎の地下には、軟弱地盤を克服するため岩盤に届く総数1万1050本もの青森産の松杭が打ち込まれていた。東京駅のあたりだけ軟弱な沖積層が薄く、地下約7メートルで杭が岩盤に達したという幸運にも恵まれた。同じレンガ造りの横浜駅舎は倒壊し、辰野設計の万世橋駅舎も焼失したものの、ビクともしなかった東京駅では構内のけが人も皆無。被災した近隣住民がホームや待合室に避難して、一時は8000人もの人々が集まり、なんとか出勤してきた5、6名の駅員が対応したという。

 1世紀にわたって駅舎を支えた松杭は近年の駅舎復元工事に際してすべてコンクリート杭に交換されたが、強度は保たれていたそうだ。

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杉崎行恭(すぎさき・ゆきやす)
1954年生まれ。カメラマン兼ライターとして時刻表や旅行雑誌を中心に執筆。鉄道趣味の世界では駅と駅舎の専門家として知られる。
著書に『日本の駅舎』『駅旅のススメ』『日本の鉄道 車窓絶景100選』など。

「特別読物 東京駅『100年』人と歴史とトリビア」より

週刊新潮 2014年12月25日総選挙増大号掲載

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