【豊臣兄弟!】秀吉の天下取りを支えたのに、まさかの領地没収…最後は国外追放に追い込まれた“悲運の武将”とは
ほかの大名たちの背筋が寒くなった理由
羽柴秀吉(池松壮亮)は京都における政庁兼住居として、平安京大内裏の跡地に壮麗な城郭である聚楽第(京都市上京区)を築いた。その完成間もない絢爛たる城に、高山右近(市川知宏)が呼び出される。キリシタンの右近は胸にロザリオを下げているが、秀吉はすでに九州平定直後の天正15年(1587)6月19日、筑前(福岡県西部と北部)の博多(福岡市博多区)で伴天連追放令を発令し、宣教師に国外退去を命じていた。
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秀吉と秀長(仲野大賀)に対峙した右近は、信仰を捨てて大名の地位にとどまるか、信仰にしがみついて大名の地位と所領を捨てるか、秀吉から選択を迫られる。秀吉は宣教師たちが南蛮諸国の手先で、彼らはキリスト教の布教をとおして日本を分断させ、そこに軍勢を送って侵略しようとしている、と説き、右近に棄教を迫る。だが、右近は反論して首を縦に振らない。かたくなに信仰を守ろうとする右近に、秀吉はついに改易を申し渡す。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第42回「北野大茶湯」(11月1日放送)。
ようやく九州を平定したタイミングで、天下一統を遂げるまでには、まだ東国に敵が残っていたが、この判断は豊臣政権の終りのはじまりといえるのではないだろうか。右近のこれまでの功を考えれば、秀吉に臣従した大名たちのあいだにも恐怖が走ったことは、容易に予想できる。
秀吉が発した伴天連追放令は、その後の徳川幕府による禁教令にくらべると緩かった。秀吉は南蛮貿易は継続したく、商人の渡航や交易は禁止しなかった。大名に対しても、表向き秀吉に従えば、信仰を捨てるように強く迫ることはなかった。そんななかで高山右近ただ一人が、キリスト教への信仰を理由に領地を没収されたのである。明らかな見せしめで、大名たちは「あの功労者でもこうなるのか」と背筋が寒くなったことだろう。
荒木村重の謀反を骨抜きにした
右近の最初の功は、秀吉には間接的なものだった。天正6年(1578)10月、荒木村重が摂津(大阪府の北西部と中部、兵庫県南東部)の有岡城(兵庫県伊丹市)に籠り、織田信長に反旗をひるがえしたときのこと。毛利家や本願寺と連携してのこの謀反は、場合によっては天下一統を進めるうえでかなりの難題となりかねなかった。しかし、『信長公記』にはこう書かれている。
〈高槻の城も茨木の城も堅固であるから簡単には攻め崩されまいと、荒木も家臣たちも思っていたところ、意外にも、杖とも柱とも頼りにしていた高山右近・中川清秀が織田方に寝返ってしまった〉(中川太古訳、以下同)
『信長公記』によると、信長は伴天連(宣教師)を呼び出して、右近が信長の味方になるように説得するように依頼し、実現したら教会をどこに建ててもいいが、失敗したらキリシタンを禁制にする、と圧力をかけたという。それを受けた宣教師に説得された右近は、妹二人と息子を人質として村重に差し出していたにもかかわらず、居城の高槻城を織田方に明け渡したのだ(人質は最終的に救出された)。
このことは信長の重臣であった秀吉への功でもあったが、それだけではない。村重が謀反を起こしたとき、秀吉は播磨(兵庫県南西部)の三木城(三木市)を兵糧攻めにしている最中で、そこに隣国の摂津でも有事が勃発したことで対応に追われた。その点では、秀吉は右近の寝返りに大いに助けられたともいえる。
しかし、それよりはるかに大きな功があった。天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で信長が明智光秀に斃されたのちのことである。
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