【豊臣兄弟!】秀吉の天下取りを支えたのに、まさかの領地没収…最後は国外追放に追い込まれた“悲運の武将”とは

国内 社会

  • ブックマーク

明智光秀の軍勢を破ったのは右近

 備中高松城(岡山市北区)を攻略中だった秀吉は、信長が斃れたという急報を受けて東に進軍し、6月13日に山崎(京都府大山崎町)で光秀の軍勢を破った、とされてきた。ところが最近、中部大学の馬部隆弘教授が秀吉の書状を発見し、秀吉は山崎合戦に間に合っていなかった、と指摘している。秀吉は6月14日の戦闘を想定していたが、秀吉が到着する前の13日に光秀が出撃してしまったため、摂津に領地をもつ高山右近および池田恒興と中川清秀が戦って、光秀の軍勢を破ったというのである。

 じつはそのことは、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には書かれていた。光秀の軍勢が迫っていることを知った右近は、3里(12キロ)以上後方にいる秀吉の軍勢に急報したが、光秀はどんどん進軍してきた。右近はもはや秀吉を待つべきではないと判断し、光秀の軍に突進した――という旨が『日本史』に書かれている。

〈右近殿は、羽柴の軍勢が遅延するのを見、自ら赴いて現下の危険を報告しようとしたが、まさにその時、明智の軍勢が村の門を叩き始めた。そこで右近殿はこの上待つべきではないと考えた。彼は勇敢で大度の隊長であり、デウスを信頼し、戦闘においては大胆であったので、約一千名余の彼の兵とともに門を開き、敵を目指して突撃した。(中略)彼らは明智の身分のある者どもの首を二百も討ち取った。そのため、明智の軍勢はたちまち動揺をきたし、混乱した〉

 多くの研究者はフロイスの記述を、キリシタンである右近の活躍を誇張または捏造していると考えてきたが、記述の正しさが秀吉の書状により証明された格好である。このように秀吉不在の山崎合戦で実際に戦ったのが右近であったなら、右近は秀吉が天下を獲るうえで計り知れない貢献をしたことになる。

止めを刺したのは徳川家康

 だが、常に自分の利益ばかりを最優先する秀吉にとっては、このような恩義はどうでもよくなってしまうのだろう。大いなる恩人の右近も例外ではなく、播磨明石(兵庫県明石市)6万石を没収され、大名としては唯一、伴天連追放令の犠牲となってしまう。

 その後はまず、同様にキリシタン大名だった小西行長の庇護を受け、小豆島(香川県小豆島町、土庄町)に滞在したとされるが、改易されて1年後の天正16年(1588)秋には、前田利家に迎えられて加賀(石川県南部)の金沢(金沢市)に移った。最初は囚人のようなあつかいだったが、天正18年(1590)ごろからは1万5000石ほどの扶持を得て、利家の死後は嫡男の利長を支えた。実際、たんに庇護されるだけでなく、藩政にさまざまな貢献をしていたようだ。

 しかし、秀吉から改易を告げられてから27年。右近に止めを刺したのは徳川家だった。大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶ前年の慶長19年(1614)、晩年の徳川家康によるキリシタンの国外追放令を受け、日本にいること自体がままならなくなった。住み慣れた金沢を離れ、妻や娘、孫などの家族とともに長崎に赴くと、フィリピンのマニラ行きの船に乗せられ、国外追放と相成った。しかも12月に到着するとほどなく病に倒れ、わずか40日ほどで息を引き取っている。

 豊臣政権樹立の最大の功労者かもしれない右近の生命は、こうして豊臣氏滅亡の直前に途絶えたのである。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動を行うほか、歴史的な視点を応用し、経済から文化まで現代のさまざまな社会状況にも言及。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]