「艦が沈むときは艦長も死ななければならぬ」――多くの無駄死を生み出した「有名な海軍大臣」の大罪

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 太平洋戦争において、日本海軍では「艦長は乗艦と運命をともにすべき」という空気が作られ、多くの海軍士官たちが不必要な死へと追いやられた。はたして、その空気を作った犯人は誰か。軍事史家の大木毅氏は新刊『海軍士官たちの太平洋戦争』(新潮選書)で、ある海軍大臣の名を挙げる。

 以下、同書から一部を再編集して紹介する。

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「ノー・サンキュー」伝説の正体

 筆者はかつて、イギリス東洋艦隊司令長官トム・フィリップス大将が、昭和16(1941)年12月10日のマレー沖海戦に敗れた際、救助の申し出を「ノー・サンキュー」と断り、座乗していた戦艦「プリンス・オヴ・ウェールズ」とともに海に没したという挿話は、日本軍の捕虜となった英水兵の壮語から出たもので、事実ではないと指摘したことがある。

 また、この伝説が、日本海軍に、艦長はおろか、その上の戦隊司令官や艦隊司令長官までも、乗艦と運命をともにすべきだとの無言の圧力のもと、無意味に死を選ぶという風潮を招いたとも論じた(大木毅『指揮官たちの第二次大戦』)。

 これに対し、多くのオールド・ネーヴィ・ファンは反発を感じたらしく、日本海軍で艦長が乗艦とともに死すのは、明治の建軍期に範としたイギリス海軍の伝統に倣ったことで、太平洋戦争になってはじまったわけではないとする言説もネット上に散見された。

不文律など存在しなかった

 なるほど、長年の言い伝えは短時日に払拭できるものではない。筆者は微苦笑を禁じ得なかった。というのは、そうした認識は典型的な固定観念というべきで、日英いずれの海軍においても、艦長は乗艦と運命をともにせよとの不文律など存在していなかったからだ。

 前者については、日露戦争で触雷、沈没した戦艦「八島」と「初瀬」の艦長が、いずれも譴責されることなく、中将にまで昇っている例を挙げるだけで充分だろう。イギリス海軍でも、たとえば、同じくマレー沖海戦で撃沈された巡洋戦艦「レパルス」艦長ウィリアム・テナント大佐は、救助されたのち、処罰されるどころか、少将に進級し、最終的には大将で軍歴を終えている。

 ちなみに、第2次世界大戦でイギリス海軍の指揮官が軍法会議にかけられたケースの訴因をみると、乗艦の喪失ではなく、戦意不足をとがめられている場合が多いように見受けられる。この件は、イギリス海軍が求めたリーダーシップを考える上で非常に興味深く思われる。

■俗説はこうして広まった

 なお、こうした例は日英海軍だけにとどまらない。艦長は指揮する艦船と生死をともにしなければならぬとする不文律があるというのは、それもまた神話にすぎないのだ。ただし、艦長、もしくは船長は、最高責任者として、総員が退艦・退船するのを見届けたのちにのみ、自らも退避することを許されるという規範、もしくは法は、多くの国にあったし、現在も存在している。

 そのため、逃げそこねて死亡する例が少なくなかったことから、艦長・船長は、自らの艦船が失われるとき、フネと運命を共有する定めにあるとの俗説が広まったものと、海事史的には推測されている。

 しかし、そう確認してみると、今度は、日本海軍の艦長たちを不必要な死に駆りたてた雰囲気、評論家山本七平流にいうなら「空気」をつくりあげたのは何であったか、そして誰であったかとの疑問が当然生じるであろう。

特定できる一人の責任

 そのうち、誰であったかという問いについては、歴史研究においては珍しいことであるが、ある特定の個人が、すべてではないにせよ、大きな責任を負っていると推定できる。それは、太平洋戦争開戦時の海軍大臣であり、昭和19(1944)年からは軍令部総長を兼任、名実ともに海軍の総帥であった嶋田繁太郎大将である。

 嶋田繁太郎は、明治16(1883)年9月24日、旧幕臣で神官であった父命周の長男として、東京に生まれた。嶋田は敬神家として知られ、多忙な海相時代を含め、神社仏閣への参拝を怠らなかったと伝えられるが、あるいは、こうした生まれ育ちが影響したのかもしれない。

 しかも、海相時代の嶋田には、他者の死生に非常に厳格な側面があったことは見逃せない。ことの性質上、文書史料によって裏付けることはきわめて困難だが、多くの証言と状況証拠が、嶋田は、沈没した艦船の責任者が生還することをよしとしなかったことを示している。

■あからさまな左遷人事

 最初にそうした処置の対象となったのは、空母「赤城」艦長青木泰二郎)大佐であったと思われる。昭和17(1942)年のミッドウェイ海戦で日本海軍は大型空母4隻を失い、そのうちの3隻、「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」の艦長たちと第二航空戦隊司令官山口多聞少将(死後中将に特進)は戦死、あるいは退避を肯んぜず、空母とともに沈んでいった。

 しかし、青木は乗員たちによって、その意に反して救助され、生還したのであった。ミッドウェイの敗戦を糊塗するため、他の3艦長が壮絶なる死をとげたと喧伝されるなか、青木は冷遇された。

 予備役に編入されたのち、召集されて海南警備府付となったあと、前線航空隊の司令を歴任し、敗戦を迎えたのである。人事局に勤務した経験もある大井篤大佐は、青木が現役からはずされた陰には、嶋田海相の意向があったのではないかと推測している(戸髙一成編『海軍反省会4』)。

 いずれにせよ、艦長が生還したことで、生き残った「赤城」の乗員までもが肩身の狭い思いをし、その戦友会は海戦から四十余年を経ても結成されなかった。ミッドウェイ海戦の優れたドキュメンタリー『滄海よ眠れ』を書いた澤地久枝は、昭和59(1984)年に刊行されたその第2巻で、こう書いている。

「それが、もし青木艦長の生還にからむことであるとしたら、艦長は艦と運命をともにするべく、生還は汚名であるという亡霊がいまも徘徊していることになる」。

 ガダルカナル戦役中に生じた第3次ソロモン海戦(昭和17年11月)に撃沈された戦艦「比叡」の艦長だった西田正雄大佐も同様の運命をたどった。部下に無理に助けだされ、意に染まぬ生還を果たした西田は、予備役に編入されたのち、召集され、廈門在勤武官、航空隊司令などを務めたのち、福岡地方人事部長で敗戦を迎えた。西田は海兵・海大ともに恩賜で卒業した逸材であるから、あからさまな左遷人事だったといえる。

■他者の生還を許さず

 かくのごとき嶋田のやりように、艦が沈むときは艦長も死ななければならぬという「空気」が海軍部内に蔓延していったものと推測される。たとえば、野元為輝少将は、空母「瑞鶴」艦長を務めていたときに、海軍次官の沢本頼雄大将にそういうものかと尋ねたところ、「お前、沈んだら後始末を良くせなきゃいけんけども、死ななくてもいいんだよ」との答えが返ってきたという。

 艦長は乗艦と運命をともにするという暗黙の了解が広まっていたことを、逆のかたちで示す挿話であろう(戸髙一成編『[証言録]海軍反省会』)。

 空気は自然に発生するのではなく、誰かが強いて、誰かが黙認する。その構図は80年を経てなお日本の組織を束縛しているのかもしれない。

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※本記事は、大木毅『海軍士官たちの太平洋戦争』(新潮選書)に基づいて作成したものです。