「真珠湾攻撃の英雄」は実はサーカスの見世物に過ぎなかった――源田実を酷評した海軍士官の名前
「真珠湾攻撃を立案した知将」「劣勢の戦局で、新鋭戦闘機を率いて米軍に一矢報いた名指揮官」――海軍士官・源田実は長く、そう評価されてきた。だが、その英雄像の少なくとも一部は、本人の回想によって巧みに整えられたものに過ぎなかった。
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軍事史家の大木毅氏の新刊『海軍士官たちの太平洋戦争』(新潮選書)では、源田が後世に残そうとした「自画像」と実際の足跡との隔たりを史料から容赦なく炙り出している。
以下、同書から一部を再編集して紹介する。
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なぜ「源田実」だけが記憶されたのか
太平洋戦争当時に佐官クラスだった日本海軍士官の名前を挙げていっても、専門家か、とくに戦史に興味のある向きでもなければ、知らない人だ、それは誰かと問い返されることだろう。しかし、源田実(げんだみのる)ばかりは、その例外に属するのではないか。
かつて源田は、真珠湾(しんじゅわん)攻撃計画を立案した知謀の人、あるいは、戦争末期の劣勢にありながら、新鋭戦闘機を駆使して圧倒的な数を誇る米軍に一矢報いた指揮官として高く評価されていた。
とくに戦後は、敗れたとはいえ、世界一のアメリカ海軍相手に互角に戦い、心胆(しんたん)を寒からしめた日本海軍という「伝説」を背景に、彼の存在は、むしろ戦前・戦中よりも華やかなオーラを帯びるに至ったといえよう。
だが、時代が昭和から平成へと移るころから、源田の栄光には陰りがみえてきた。その海軍軍人としての軌跡は先見と明断に輝いていたはずだったが、そこには歪曲や粉飾があったこと、特攻実施の決定についても深く関与していたことが暴かれ、源田の能力や識見に疑問符が付されはじめたのだ。
■「武人」の内側に残った軍事官僚
結論からいえば、彼が自らの前半生を脚色し、それを後世に伝えようと努めていたことがあきらかになったのである。しかも、源田が、その主観においては自らを「武人」と規定していたにもかかわらず、彼の言動には、「役人」としての職業軍人の思考様式が大きく影響していたと思われる。すなわち、たとえ虚偽を強弁することになろうとも、おのが無謬(むびゅう)性を守らずにはいられない軍事官僚の習性だ。
以下、そうした側面に留意しつつ、史実に照らして、源田による「自画像」を再検討してみたい。
■「生まれながらの軍人」という物語
広島県山県郡加計町(現安芸太田町)で、造り酒屋と農業を営んでいた源田春七の次男が生まれたのは、日露戦争がはじまった年、明治三十七(一九〇四)年8月16日のことだった。春七は子宝に恵まれ、この実と名付けられた子を含め、6男2女を授かっている。
この次男坊は、尋常小学校に入るころには戦争ごっこが好きな子供に育ち、一人で遊ぶときも雑記帳に地図を書き、敵味方を配置しての図上演習めいた遊戯に興じていたという。尊敬する人物は源義経と山鹿素行(やまがそこう)だったというから、やがて軍人を志すようになったことも怪しむにはおよばない。
■軍縮に直面した第52期
すでに尋常小学校時代から海軍に憧れていた源田実は、広島一中(旧制)に進むと、入試に合格できなくとも、陸軍士官学校や高校(旧制)を受けるなどというようなことは考えないと思いつめるほどに、熱烈に兵学校を志望した。その願いはかない、大正10(1921)年に52期生として海軍兵学校に入校することができた。
ちなみに、この52期ならびにその前の50・51期には、その前後の時代とはいささか異なる特徴がある。第一に、大正九年に成立した「八八艦隊案」(戦艦8隻・巡洋戦艦8隻を基幹とする艦隊整備案)の要員確保のために、およそ300人もの大クラスとなったことだ(52期の入校員数273名)。
しかも、彼らが在校中の大正11(1922)年にワシントン海軍軍縮条約が締結されたため、急遽退校希望者を募ることになったという、いわくつきのクラスでもあった(52期の卒業員数は236名。これが一期下の53期になると、62名に激減する)。
同じ航空畑から現れた批判者
第二に、いわゆる「宮さまクラス」、高松宮宣仁親王の期であったことが幸いし、海軍兵学校でいう「修正」、つまり、上級生による「鉄拳制裁」が禁じられたことが指摘できる。
この52期生には、入佐俊家、淵田美津雄、玉井浅一など航空畑に進んだ者が少なくないが、そのなかに、源田を終生批判しつづけることになる柴田武雄もいたのである。もっとも、異例の大人数クラスでもあり、また源田は履修外国語として英語、柴田はドイツ語を選択とあって、学級がちがったせいか、海軍兵学校在校中に両者が衝突したというようなエピソードは残されていない。
源田は、兵学校入校のときにもう、航空畑に進もうと決意していたが、望み通りになるか、心もとなかったと自ら述懐している。運動が不得手で、パイロットの適性審査に合格する自信がなかったのだ。
新聞が名付けた「源田サーカス」
とはいえ、大正13(1924)年、卒業席次17番の好成績で兵学校を卒業、翌年に少尉に任官した源田が、翼を得るときはそう遠くなかった。昭和3(1928)年、源田中尉(前年に進級)は、パイロット養成コースである第19期飛行学生となることを命じられ、霞ヶ浦海軍航空隊に転属となったのである。それも第一志望の戦闘機専修であった。
こうして霞ヶ浦で1年間の基礎教育を受け、翌年に首席で卒業した源田は、以後、航空要員の教育訓練、戦技研究、試作機の実用試験などを担当し、海軍航空の総本山というべき存在だった横須賀海軍航空隊付、空母「赤城」乗組、霞ヶ浦航空隊教官と、パイロットとしての出世街道をひた走ることになる。
とくに源田の名声を高めたのは、昭和7(1932)年に横須賀航空隊の教官に配置されてからの活躍であった。そのなかには、格闘戦技術や戦闘機による急降下爆撃の研究など、航空戦術に直結する業績もあったが、国民一般の注目を集めたのは、3機編隊による曲芸飛行だった。航空機の献納式などがあれば、源田の指揮する編隊が飛来し、観衆の頭上でアクロバットをやってのけたのである。
この海軍のPRともいえる飛行を実施したのは、彼の編隊ばかりではなかったが、その出番が多かったことから、新聞が「源田サーカス」と名付け(第一次世界大戦で、指揮官であるエースの名にちなんで「リヒトホーフェンのサーカス団」の異名で連合軍に恐れられたドイツ軍の戦闘機隊があるが、それをもじったものか)、もてはやしたのだという。
しかし、すでに述べたように、源田とことあるごとに対立し、戦後も彼への敵意をあらわにしつづけた柴田は、こうしたやりようを苦々しく思っていたらしい。かくのごとき二人の関係に鑑みれば、柴田の回想録は、非常に興味深く貴重なものではあるけれども、細心の史料批判を要するのであるが、やはり戦闘機操縦の専門家の視点が示されていると思われるため、その酷評を引用しておく。
「また、源田のスタンドプレーは有名であるが、その代表的なものは、源田サーカスと言われた『見せ物的飛行』である。ところで、その操縦は微妙な操作を必要とするので、むずかしい一面のあることは確かであるが、その操作の大部分は実戦の空中戦闘には使用しない。いや、外見は似ていても、内容はまるで違うとも言える」(柴田武雄『源田実論』)。
「その操作の大部分は実戦の空中戦闘には使用しない」。柴田は源田をそう酷評する。見せ場をつくる才と、実戦で勝つ才は別物であると。
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※本記事は、大木毅『海軍士官たちの太平洋戦争』(新潮選書)に基づいて作成したものです。









