美智子さまのご結婚は「“身分が違いすぎる”と何度も辞退した」 「上皇后陛下」92歳 実母が明かしていた「イジメの真相」
10月20日は、上皇后陛下の92歳のお誕生日である。昭和9(1934)年、後の日清製粉社長・正田英三郎氏と富美子さんの長女として生まれた美智子さまは、雙葉小学校、聖心女子中・高・大学を経て今から67年前の昭和34(1959)年、「テニスコートの恋」を実らせた上皇陛下(92)とご結婚された。
【写真】「美しすぎる」のひと言…昭和30年代「ミッチーブーム」を呼んだ頃の美智子さま
その「世紀のご成婚」は、国民の間に「ミッチーブーム」を巻き起こし、これを機にテレビが各家庭に一気に普及するなど、戦後日本を代表する社会現象のひとつとなった。しかし、その華々しさとは裏腹に、長い皇室の歴史上でも初めて“将来の皇后”が民間から迎えられるという“事件”は、当時の皇室にさまざまな軋轢を生んだのもまた事実である。
「日本一の旧家」に嫁がれた美智子さまは、さまざまな苦難に直面した。それを乗り越えられ、平成の御世では皇后、令和の御世では上皇后として、上皇陛下や皇室を支えられてきた。今年に入って5月、散策中に立ち止まって呼吸を整えられるなどお疲れのご様子が見られ、予定されていた大相撲観戦を取りやめになさることがあったものの、おおむねご体調は良好で、赤坂御用地にある仙洞御所で日々をお過ごしになられている。
皇室ジャーナリストの故・松崎敏弥氏は、2006年、「皇太子ご成婚と『ミッチーいじめ』の真相」と題された記事を月刊誌「新潮45」(現在は休刊)に寄稿。ご結婚の経緯と皇室内での軋轢について記している。
以下、それを再録し、上皇后陛下が92年の半生で“乗り越えられてきたもの”とは何だったのか、探ってみよう。
【前後編の前編】
(「新潮45」2006年3月号 皇室ジャーナリスト・松崎敏弥氏による記事 「皇太子ご成婚と『ミッチーいじめ』の真相」を一部編集の上、再録しました。文中の年齢、肩書き等は記事掲載当時のものです)
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テニストーナメントでの出会い
皇太子明仁親王(現・上皇陛下、以下同)のお妃選びが本格化したのは、昭和28(1953)年の成人式からだった。その選考には、宮内庁長官の宇佐美毅、侍従長の三谷隆信、東宮職参与の小泉信三、東宮大夫の鈴木菊男、東宮侍従の黒木従達と、昭和天皇の意向で加わった前宮内庁長官の田島道治の6人があたり、秘密裏に進められた。当初は旧華族から候補者を選ぼうとしたが、ほどなく民間人にも範囲を広げ、宮内庁は聖心女子大、東京女子大、日本女子大、お茶の水女子大などに推薦を依頼したという。
昭和32(1957)年、皇太子は軽井沢で開かれたテニストーナメントで正田美智子に出会った。ダブルスで、外国人とペアを組んだ皇太子は、外国人少年とペアを組んでいた彼女と対戦したのである。これをきっかけに、皇太子のアプローチが始まった。美智子の父は日清製粉社長ではあるが、一介の民間人。「身分が違いすぎる」と何度も固辞したというが、翌年11月27日に婚約が正式に決定した。
この日の午後、皇居を訪れ記者会見に臨んだ正田美智子は、日本中を魅了したといっていい。
「……ご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げられる方というところに魅力を感じました」
清楚で明るく、初めての会見でも物怖じせずにはっきり自分の考えを述べられた様子は、ミッチーブームを生み出した。彼女はこの前年の3月に聖心女子大を卒業、花嫁修業に勤しんでいた。大学時代は学生自治会長を務め、成績は学内トップ、卒業式では総代に選ばれている。テニス部と合唱部に属し、テニスは関東学生ランキング第4位で、合唱部ではメゾソプラノのパートだった。皇太子妃に相応しい、非の打ち所のない女性だった。
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