なぜ「ノーベル賞」の日本人受賞者は多いのか? ノーベル化学賞「白川英樹博士」が賛辞を惜しまなかった“先人たちの奮闘”と、“母語で学問を学べる”という恩恵

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 ノーベル化学賞(2000年)を受賞した白川英樹・筑波大学名誉教授が、8月24日死去した(享年90)。1967年、「電気を通すプラスチック」という当時の常識を打ち破る発明に成功。その後の電子技術やIT産業を発展させる起爆剤になった。死去を伝える報道のほとんどはこの業績の紹介に費やされている。

 しかし、白川氏が70歳ごろから関心を抱いたのは、この分野の研究ではない。江戸期から明治にかけて、日本に伝来した物理、化学、医学などの先進科学を手探りで学び、専門語を一語ずつ理解して翻訳し、学問体系を作り上げてきた先人たちの血のにじむような努力に思索を深めてきた。白川氏は晩年、その奮闘した先人たちへの感謝の思いを現代の日本人に伝えようとしてきた。

 われわれが今、自然科学や人文科学、社会科学など、ほとんど全分野の学問を母語である日本語で容易に学ぶことができるのは、そうした先人たちの努力のおかげである。

 日本人が日ごろ気付いていないこの恩恵は、歴史上どのようにして可能になったのか――生前の白川氏が筆者に語った熱い思いを紹介する。【木代泰之/経済・科学ジャーナリスト】

「日本語で学んでいるからではないか」

 私が白川氏に初めてお会いしたのは2017年。「導電性プラスチックの未来」といったテーマでインタビューをお願いしたところ、「もうそちらには関心が薄れてしまってね。私が今一番語りたいのは……」と、切り出されたのが、冒頭で触れた「日本語で全ての科学を学び考えることができる幸せと、先人たちへの感謝」だったのだ。その後、私が座長を務める企業人の研究会でも、同じタイトルで講演していただいた。

 白川氏がこの問題への関心を深めるようになったきっかけは、ノーベル賞受賞の日のある出来事にさかのぼる。

 ノーベル賞受賞の一報は2000年10月10日の夜9時半ごろ、通信社から白川氏の自宅にかかってきた1本の電話だった。その後も電話が鳴り続け、テレビでもテロップが流れたが、ノーベル財団から正式な連絡は何もない。その夜は電話線を外して就寝。翌日午後に来宅したスウェーデン大使館の人から正式に受賞を告げられた。

 早朝から自宅を取り囲んでいたメディアの取材があらかた終わったとき、香港のある経済誌の特派員が帰り際にこんな質問をした。

「欧米諸国に比べると、日本人の受賞者は少ないけれど、アジア諸国と比べると断然多い。それはなぜだと思うか」

 意表を突かれた白川氏は、とっさに「日本人は日本語で書かれた教科書を使い、日本語で学んでいるからではないか」と答えた。

「思考の道具」としての日本語

 頭の中にあったのは、アジアではインド、シンガポール、マレーシアは英国の、ベトナムはフランスの、インドネシアはオランダの植民地になっていたこと。そのせいで各国はそれぞれ旧宗主国の言語を使って学校教育をしていたのだ。

 白川氏は言う。

「アジアの国々は学ぶための言語と、ふだん生活で使う言語(母語)が異なっている。この2つの言語は本来、学問を究める上で別々であっていいはずがない。日本は欧米の植民地にされずにすんだので、母語でほとんど全分野の学問ができるというアジアでは珍しい国なのです。これが、日本人がノーベル賞を多くとった根源的な理由だと思います」

 このテーマが白川氏のその後の思索の中心になった。すると2年後の2002年7月の朝日新聞文化欄に、作家・丸谷才一氏の「考えるための道具としての日本語」という文章が載った。言語を「思考のための道具」と「伝達のための道具」に区別し、「思考のための道具」としての日本語がなおざりにされていると警告を発するコラムだった。これを読んだ白川氏は、あの日特派員に答えたことは正しかったのだと確信した。

「自然科学に限らず、人文科学、社会科学、芸術を究めるには、自然や人間をしっかり観察して考えなければならない。私たちは母語である日本語を思考の道具として使い、そのことを実践しているのです」

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