なぜ「ノーベル賞」の日本人受賞者は多いのか? ノーベル化学賞「白川英樹博士」が賛辞を惜しまなかった“先人たちの奮闘”と、“母語で学問を学べる”という恩恵

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学問を母語で学べる国

 白川氏は更に、ノーベル賞受賞者の出身国と人数、どこで学び研究してきたかを調べてみた。2000年時点でのアジアにおける受賞者(物理学、化学、医学・生理学の3賞)は、日本が6人(湯川秀樹、朝永振一郎、江崎玲於奈、福井謙一、利根川進の各氏と白川氏)で、いずれも母国の大学で学び研究した人たちだった。

 他はインド1人、中華人民共和国3人、パキスタン1人だが、インドのチャンドラセカール・ラマン氏(1930年物理学賞)だけが母語(ヒンズー語)で研究し、残る4人は米国や英国での研究成果が受賞対象だった。

「つまり母国で学び研究した受賞者の比率は日本と他のアジアでは、6対1なのです。それ以降、2017年までに日本は16人が3賞を受賞したが、他のアジア諸国は中国人のトユウユウ氏(2015年医学・生理学賞、中国本土で研究)だけ。通算するとその比率は22対2に広がります。この事実からも母語でしっかり学び、深く核心を突く考えを身に付けることの大切さが分かります。生活に立脚せず学問のためだけの言語で、新しい学問を創造することができるのだろうか。ただ浅く理解するだけで終わってしまうのではないかと、疑問に思います。科学や芸術を創造し実践するということは、生活と一体化した行為なのです」

 自然科学をはじめ多くの学問を母語でそのまま学べる国は、世界にそう多くない。その点、日本人は大いに恵まれている。白川氏はその歴史の歩みをたどる。

“舵のない船で大会に漕ぎ出したよう”

 日本は古くから大陸の漢字文化を取り入れ、万葉仮名を作り、漢字(表意文字)と、ひらがな・カタカナ(表音文字)を組み合わせた言語体系を作り上げた。江戸時代には長崎に入って来る欧米の科学知識を懸命に日本語に翻訳した。

 杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らはオランダ語の医学書「ターヘル・アナトミア」を4年かけて翻訳し、「解体新書」(1774年)を出版した。杉田玄白は後日、「蘭学事始」(1815年)の中で、当時の苦労を「櫂(かい)や舵のない船で大海に漕ぎ出したよう」と書き残した。

 白川氏は言う。

「例えば鼻は『フルヘッヘンドするものなり』とあるのですが、辞書がないので誰にも意味が分からない。長崎で入手した資料に『木を切ると跡がフルヘッヘンドとなる』とあり、ようやく『うずたかく盛り上がっている』という意味だと分かった。『その時の嬉しさといったら何に喩えようか。連城の璧(玉)を得た(素晴らしい宝石を手に入れた)気持ちだった』と書いています」

 江戸時代には各藩に藩校があり、物理学(当時は窮理学)や化学の知識を教えるところもあった。和算の分野では、有名な関孝和だけでなく、実に多くの町人や農民が和算を学び、自ら解いた数学の難問を絵馬や算額にして神社などに奉納していた。

「江戸末期に来日した欧米人は、農民が和算を学び和歌を作ることに心底驚きました。当時の日本人の好奇心や探求心・向学心は、ちょっと考えられないほどのすごさで、識字率の高さは世界一だったといわれています」と白川氏。解体新書だけが孤高の存在だったのではなく、江戸社会全体が学問水準を高めていく中での業績だったのである。

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