特攻前夜に“白い絹のマフラー”を贈り…「人間魚雷」隊員たちに母と慕われた女性 戦後も位牌に朝晩手を合わせ続けた生涯
昔のお母さんという感じの女性
1944(昭和19)年9月、“死ぬための猛訓練”が始まったが、その若い隊員たちが、わずかな休暇を楽しみ、また特攻出撃前夜の別離の宴席を持ったのが、徳山市内の高級割烹料亭「松政」だった。
そこには、「お重さん」と皆に呼ばれる名物仲居の倉重アサコさんがいた。
かつて第六艦隊の水雷参謀で『人間魚雷―特攻兵器「回天」と若人たち』(新潮社刊)の著者でもある鳥巣建之助氏によると、
「そのころの彼女は、丸顔ででっぷりとして本当に昔のお母さんという感じの女性だった」
彼女は山口県美祢郡美東町の農家の長女として生まれ、酒飲みの父親が家財を蕩尽(とうじん)したため、尋常小学校を出ると「松政」で奉公することになった。やがて結婚して一度は辞めたのだが、夫が病死したため、1940(昭和15)年、31歳のときにまた「松政」に戻った。
「松政」は、海軍士官たちから愛用されていたが、「さっぱりした性格のお重さん」は特に可愛がられて、山本五十六大将(死後に元帥)、南雲忠一中将(死後に大将)らの書もいくつかもらっている。
特攻隊員に贈った白い絹のマフラー
1944(昭和19)年11月、板倉光馬少佐(当時、回天隊員の訓練・教育担当)が「松政」に来て、「60人くらいでスキ焼会をやりたいか世話をしてくれ」といったのが、お重さんと「回天」との付き合いの始まりだった。
「物資のない時代だったが、彼女は近所をかけ回って七輪、炭その他をかき集め、雨戸をテーブルの代わりにして会を開いた」(鳥巣氏)
これが緑で、若い隊員が遊びに来るようになり、特に地方出身の若い予科練生たちは、彼女のことを「お母さん、お母さん」と呼んで甘えていた。
「回天」の第1回出撃は1944(昭和19)年11月8日。3隻の潜水艦に搭載された4基の「回天」は20日、ウルシー環礁(西太平洋、カロリン諸島西部)に突入、2万3000トンのタンカー撃沈の戦果をあげた。このとき特攻隊員たちは、出撃前夜の壮行会で、お重さんから贈られた白い絹のマフラーを巻いていたのだった。
以来、彼女は隊員たちにマフラーを贈り続けることになる。食料も繊維製品も極度に不足していた時代に、白い絹を探し出すことは至難に近いことだったが、彼女は不思議にどこからか探してきたという。
「回天は私の一生です」
結局、回天特別攻撃隊は終戦までに戦死86名、殉職15名、さらに自決2名を数えて昭和20年8月15日に解散した。
しかし、お重さんにとっての「回天」は終わらなかった。住み込んでいた「松政」の居間に隊員たちの位牌をまつり、朝晩手を合わせ、人には「回天は私の一生です」と語っていた。
1957(昭和32)年、出光興産徳山精油所が完成したとき「松政」で祝宴が開かれ、出席した当時の社長、出光佐三(さぞう)氏が彼女から「回天」との因縁を聞かされて感銘を受け、大津島の回天碑、回天記念館の建設に全面協力したこともあった。
1971(昭和46)年7月「松政」は店を閉めることになり、お重さんは故郷の村に帰って倉重アサコとして、養子の覚(さとる)さん、美代子さん夫婦と暮らすことになったが、毎年11月の大津島の慰霊祭に欠かさず出席し、かつての隊員と会うことを何よりの楽しみとして暮らしていた。上京してテレビで昔話を語ったこともあれば、「回天の母お重さん」とレコードで歌われもした。
高血圧の彼女は1984(昭和59)年6月に初めて倒れて、意識不明となった。
「ウソのように回復しました」(美代子さん)
が、1985(昭和60)年2月9日にまた倒れ、意識不明のまま同月22日に78歳で息を引き取った。葬儀には旧隊員など約200人が参列、「回天を一生とした女性」の冥福を祈った。
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