拾った財布を届けたら泥棒扱い――日航123便の垂直尾翼を回収した「護衛艦まつゆき」元乗員の怒り
事故当日まつゆきは出港していない
その護衛艦まつゆきが陰謀論者たちの目に留まったのは、たまたま事故の翌日に同艦が日航機の垂直尾翼の一部を洋上で回収したからだ。まるで、財布を拾って交番に届けた親切な人に対して、「お前が財布を盗んだのだろう」と言わんばかりの言いがかりだ。
私の著書『日航123便墜落「撃墜説」の真相』では、まつゆきの「建造経歴書」の一部を初めて情報公開請求で入手し掲載した。建造経歴書とは、艦艇の建造開始以降、進水し就役するまでの履歴を、設計の詳細や海上公試の結果(いつ、どこで何の試験をしたか、試験結果のデータ等)も含めて造船会社が詳細に記し、発注元である防衛省に提出する報告書だ。全数十冊、計数千ページに及ぶ。
当時のまつゆきは造船会社(石川島播磨重工業)に所属する艦として、海上公試を行っていた。建造経歴書には、まつゆきが事故翌日の8月13日に出港し、エンジン関係の各種試験を行った後、8月16日に豊洲に帰港したことが記録されている。つまり、まつゆきは事故当日(8月12日)には当時豊洲にあった石川島播磨重工業第一工場に係留されていたのである。まつゆきが8月12日に係留されていたことは、当時まつゆきに乗っていた乗員、関係会社の人たちの証言とも一致する。また、陰謀論者が主張するミサイルの発射訓練などはこの期間には行われておらず、行われていたのはエンジン関係の各種試験である。当然ミサイルなど一発も搭載していない。
撃墜説が完全に破綻していることは明らかだろう。「現場にいなかった護衛艦」から、「存在しないミサイル」を、多くの人や船が行き交う洋上で「極秘に発射」するなど、どう考えても不可能である。
当時の乗組員が保存していた詳細な記録
2026年7月下旬、私はまつゆきの元乗員2人に面会し、当時の話と現在の心境を伺った。
亀田康平氏(77歳)は当時まつゆきの機関長、鎗光和博氏(75歳)は補給長であった。2000年代初頭に海上自衛隊を退職し、平穏な余生を過ごしていたが、ある日突然、陰謀論者らの著作やネット上に拡散されたデタラメな投稿で、あたかも520名が亡くなった事故の「犯人」であるかの如く描写された。
亀田氏と槍光氏は、まつゆきの艤装員(新造艦艇の建造から就役までを担当する隊員)として最初に選出された5名の中の2人だった。まつゆきを知り尽くした2人は、当時の状況を詳しく説明してくれた。特に亀田氏は、まつゆきの海上公試に関する詳細な記録とメモをつけていたのである。
亀田氏が手書きで几帳面に記録していた内容は、建造経歴書の記録と完全に一致していた。8月12日に出港していないことはここでも確認でき、さらに亀田氏は8月13日から16日の出港の記録も詳細に記録していた。当時の造船所が作成した青刷り(当時はまだコピー機が十分に普及しておらず、青刷りの印刷が使われていた)の資料もすべて残されていた。記録されていたコクヨのB5ノートも1985年当時に販売されていたものであり、実物であることは明らかだ。
亀田氏のメモや証言から、8月12日の時点では、海上自衛隊からは二次艤装員として約30名しか配員されておらず、その中にレーダーやミサイルを担当する隊員はいなかったこともわかった。また、弾薬の請求を担当していた元補給長の鎗光氏によれば、まつゆきの海上公試ではミサイルの発射は行われず、初めて実弾を発射したのは85年12月で76ミリ砲であったという。まつゆきの初めての対空ミサイルの発射は、就役後の1986年10~11月頃に行われた装備認定試験で、四国沖の射撃等訓練区域で行われたという。
ちなみに123便の尾翼を回収した際も、まだ艤装中のため内火艇(護衛艦に搭載するエンジン付きボート)の操縦手もおらず、海面から引き上げるのに苦労したそうだ。
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