「大きなトランクを開けたら軍票がギッシリですよ」 政財界のフィクサー「児玉誉士夫」が愛した「女性」が語っていた秘話【ロッキード事件から50年】

  • ブックマーク

息子との最後の別れは……

 そして今度は、本妻Kさんが、Sさんの前で“告白”をはじめた――「実は、もう一人、このそばにいるんですよ。私がいくら防空壕を作ってくださいと頼んでも、ここには作ってくれない。それなのに、あちらには大きな防空壕ができている。そのうえ、あちらには子どもがすでにできていて、児玉は私のハンコを偽造してその子の籍を私のほうに入れているんです」

 この本妻Kさんの話を聞いて、Sさんは心底から同情してしまったという。ところが結局、息子を本妻Kさんのもとへ連れていく前に、児玉の部下がやってきて何処へか、連れ去った。

「それが息子との最後の別れでした。その後、児玉の使いが来て、“今後、児玉とも息子とも一切かかわりはもたない”との念書を書かされました。それっきり、児玉とも息子とも、連絡はとっていません。児玉が亡くなったとのニュースを聞いても、“ああ、そんなに体が悪かったのか……”と感じるくらいですね。もちろん、お線香をあげになんか行けませんよ。ただ、息子を今日まで育ててくださったことは、本当に感謝しています」

 A記者が話を聞き終えたのは、もう夜11時近かった。編集部へもどったのは深夜零時近く。取材班は意気消沈していた。

「現夫人は取材拒否。むかし付き合っていた赤坂芸者の、“児玉のアレはカラスの行水。いつどんな危険があるかわからないので、とにかく早く済ませるのが習慣なの”とのコメントが取れた程度で、あとはすべて、第三者の間接証言だけだったのです」

 そこへSさんの貴重な3時間の“告白”が加わることになり、取材班は、ようやくホッと息をついた。A記者が自分の担当部分を書き上げたころは、朝の6時を過ぎていた。結局、4頁のうち、半分以上がSさんのコメントで埋まった、“ミニ・スクープ”記事になった。それが《「児玉誉士夫」が遺した「女」たちの「暗い勲章」》(1984年2月2日号)である。

 ロッキード事件の発覚から今年で50年。その後、児玉誉士夫は1984年に没。「記憶にございません」の流行語を生んだ小佐野賢治(国際興業創業者)が1986年に没。そして田中元総理も1993年に没した。現在、事件の逮捕者は、全員が鬼籍に入っている。

※記事本文の引用は、主旨を変えない範囲内で一部文章を修正しています。

【前編は「〈ロッキード事件から50年〉秘密代理人にして超大物右翼『児玉誉士夫』を知る“愛人”が告白していた『別にたいした話もないけれど、それでもいい?』」】

森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。