イスラエルの空港で無差別乱射し26人を殺害 日本赤軍メンバー・岡本公三が死亡 生前語っていた「テロ実行を決定づけた、映画監督との夜」

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日本出国から3カ月で逮捕

 1972年2月末、出国。レバノンのPFLPの施設で自動小銃の射撃訓練を受け、5月30日の惨禍に至るのである。時に24歳。

 1972年の事件当時、在イスラエル日本大使館で参事官を務めていた、松藤淳氏は事件直後から約5年にわたり、月に1回程度、岡本と面会を続けていた。その時期の様子を1985年に『FOCUS』の取材に答えている。聖書、仏典、内藤國雄九段の詰将棋の本などを本人の希望で差し入れたこと、将棋はアラブ人受刑者に教えていたほど好きで、「同期の桜」や故郷熊本の「五高寮歌」を歌っていたという。

 長期の拘禁の影響からか、様子がおかしいように見え始めたのは、1977年頃からとも言われるが定かではない。

釈放、しかし

 1985年、岡本はイスラエルとパレスチナ側の捕虜交換で釈放。日本赤軍が拠点にしていたレバノンに戻り、合流した。アラブの英雄扱いされる一方、表情はうつろで言動も不安定。これが本当の姿か、それとも欺くための演技なのか、見解が分かれた。岡本らが起こした無差別乱射事件以降も、日本赤軍はハイジャックや在外公館の占拠など国際的テロ事件を次々に起こしており、岡本復帰が組織に与える影響が注目されていたのである。

 逮捕を受け入れてでも日本に帰国するのではとの見方は薄かった。よど号事件にイスラエルでの乱射。そうした兄弟の犯罪により岡本家や親類は辛酸をなめており、いまさら帰る場所はなかった。

 レバノンは岡本をはじめ日本赤軍メンバーの存在を黙認していたが、1997年、旅券偽造などの容疑で岡本を含む5人が逮捕され、実刑が確定。2000年に刑期を終えると、岡本以外の4人は日本に強制送還され、岡本は政治亡命が認められた。まだ、岡本は別格扱いされていたのである。

幽閉者

 岡本はPFLPから日常生活の支援を受けていた。日本からの取材にも応じており、時折望郷の念を示している。一方で、殺人の容疑者である立場は変わらず、帰国すれば逮捕される。足立正生監督は岡本をモデルにした映画『幽閉者(テロリスト)』を2007年に公開、電話やスカイプで連絡を取っていた。若松監督も2012年に他界するまで、時折、岡本を訪ねた。結果として若き日の岡本を煽る形になって以来、長い関係だ。

 2022年、岡本は事件から50年に合わせた行事に姿を見せていた。

 日本赤軍自体は重信房子最高幹部が2000年に潜伏していた大阪府内で逮捕、翌年、重信が獄中から解散宣言をしたものの岡本以外に手配中の6人の所在が不明のまま。重信も2022年に刑期を終えている。

 岡本の死去はPFLPから発表された。最後まで面倒を見たことになる。7月23日、78歳で他界。日本を発って54年が過ぎていた。だが、その歳月を受け止めていただろうか。

 1975年、『週刊新潮』に寄せた手記では〈私は、今、終身刑という判決と向い合っている。この刑期を、まっとうしない限り、私は私のために、ムダな死を遂げた人々に、罪の償いをすることができない。私一個の人生にはかえられない、多くの人生を無にしてしまったのだから〉と省みていた。しかし、捕虜交換により約13年で釈放された。以後、これ以上明確な謝罪は公に見受けられなかった。

デイリー新潮編集部

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