イスラエルの空港で無差別乱射し26人を殺害 日本赤軍メンバー・岡本公三が死亡 生前語っていた「テロ実行を決定づけた、映画監督との夜」

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岡本公三という男

 岡本公三は1947年、熊本県出身。父は小学校で校長をしていた。2歳年上の次兄、岡本武容疑者は1970年によど号ハイジャック事件を起こして北朝鮮に渡ったひとりで、現地で死亡したと伝えられている。革命実現のために強力な武装が必要と唱える過激な左翼思想は、この次兄の影響を受けている。次兄を尊敬しており同じように京都大学への進学を志したが果たせず、2年浪人して鹿児島大学に進んだ。そして次兄に学びながら急進化していったのだ。

 岡本公三は、1972年に起こしたイスラエルの乱射事件でひとり生き残り、現地での裁判で終身刑の判決が確定する。

週刊新潮に寄せた手記

 服役中の1975年、『週刊新潮』に自身を振り返る長文の手記を寄せた。次兄に追いつきたいと背伸びをしているうちに、自分で判断や収拾がつかない段階に来てしまった人物なのでは、と感じさせる文章だ。

 次兄の勧めで参加した集会を〈名前のわりに中身のない集会で、こうしたものが積み重なると、「名が知られているわりに実力のないヤツ」がはびこってくることになる〉と、今なら「上から目線」と言われそうな態度でくさし、〈学園紛争の持つ限界を感じることのできない連中が左翼を名乗っていると思えば、やはりシャクにさわった〉と、他派をけなす。若い時にはいきがってみたくなるものだが。

 次兄と翌朝まで話しこんだ時には〈左翼運動を一国的なものから世界性へつなぐために、まず世界赤軍の建設をすべきであること〉などと諭されている。どうやら深夜喫茶での会話らしく、お店でこんな話をしていて大丈夫なのかと他人事ながら思うが、弟は〈兄弟という肉親的親近感によって「赤軍化」していったのが現実〉で、〈次兄の話は観念的「革命論」を否定し、「実力あるもの」「中身のあるもの」を追求するための起爆剤として作用した〉と回想する。

 それが無差別乱射につながっていくのだろうか。

 乱射事件から間もない時期、兄弟ふたりのありようは、朝日新聞にまで「過激に走った“秀才兄弟”」「なぜ迷惑かける子に…」などと書かれている。

 1970年に起きた三島由紀夫の自裁にも触れている。〈彼の美学からすれば、三島はなぜ独りで朝日の昇る海をみつめながら腹を切らなかったのか。が、骨のない左翼人たちに対する警告の意味で、三島事件は前向きに受け止められるべきである。私はよく思うのだが、あらゆる意味での「日本らしさ」の欠如に対して、危機感を感じることのできない自称左翼人と、その限界性はあれ、危機感を覚え、採算を度外視した行動をとることができた三島由紀夫と、どちらが「左翼的」なのか〉と力がこもっているが、自身は骨のある左翼人と言いたいのだろう。

 先に挙げた若松監督の映画『赤軍―PFLP世界戦争宣言』にも触れている。

〈軍建設の困難を身をもって感じるものにとっては、こうした映画は必要ないともいいきれる〉〈爆薬製造に関するチャチな本を乱発したり、映画を作ってみたりすることは、左翼たるもの厳に慎むべきである。こうした乱発が、なんの意味もない「戦争ごっこ」を誘発し、真の武装闘争の妨害物に転化してしまう危険性は、常に考えねばならない〉と記しながら、その若松監督から金を調達したことも正直に書いている。

 若松監督が『赤軍―PFLP世界戦争宣言』を鹿児島大学で上映しようとした時、大学側との交渉を引き受けたことも振り返っている。よど号ハイジャック犯の実弟であることから、若松監督に〈オマエもあんな偉い兄を持ってうれしいだろう。少しはガンバれ〉と芋焼酎を飲みながら話し合ううちに言われた。〈おだてに弱い私は、悪い気はしなかった。ニヤッと笑い返しておいたが、「よし、おれも」という思いが、桜島の煙よりも高く天にのぼっていった。今、振り返ってみて、もし、あの時、若松孝二とあんな話をしなかったなら、こんな遠い国までやってきていないのではないかと思う。あの夜が、私の人生を決定したといってもいい〉

 世界革命、パレスチナ解放運動への連帯、思いは様々あれども、最終的に自尊心をくすぐられた、ということだろうか。

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