「夫婦別姓は家族の絆を弱める」のに「女性皇族は結婚しても夫の苗字を名乗れない」のか? 「皇室典範改正」の気になる矛盾点
皇室典範改正に向けた手続きは、改正案が国会に提出されたことで最終段階に突入している。提出案の骨子は、女性天皇の是非の議論をペンディング(留保)する一方で、一般国民の中から、戦後、皇籍を離れた旧11宮家の旧皇族の子孫を皇族として養子に迎え、その後に生まれる男児に皇位継承権を与えるというもの。女性皇族は婚姻後、希望によって皇籍を離れることもできる。また、旧11宮家の子孫にも、養子縁組を拒否できる選択肢が設けられた案となり「人権を軽視した時代錯誤の案ではない」として、令和の時代感覚に沿ったものと評価する声もある。だが宮内庁OBは「この制度設計には、大きな自己欺瞞が潜んでいる」と指摘する。それはどういうことか……。
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“遠戚”と言えるのか
まずは11の旧宮家について、簡単におさらいしたい。
旧宮家とは伏見宮家、東伏見宮家、久邇宮家、東久邇宮家、賀陽宮家、竹田宮家、北白川宮家、山階宮家、梨本宮家、朝香宮家、閑院宮家の11宮家を指す。敗戦2年後の1947年10月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による皇族費制限と日本の財政難を背景に昭和天皇の弟の秩父宮家、高松宮家、三笠宮家の3宮家は存続となる一方、皇族の身分を失い一般人となった11に及ぶ傍系の宮家だ。
前出の宮内庁OBによると、
「天皇家に後継者が生まれなかった場合のセーフティーネットとして、江戸時代には伏見宮家、閑院宮家、桂宮家、有栖川宮家の4つの宮家がありました。ちなみに桂宮家は2014年に薨去(こうきょ)された桂宮さまとは無関係です。桂宮家と有栖川宮家は昭和に入る前に消滅しましたが、幕末から明治時代にかけて9つの旧宮家が新たにできたのは、明治天皇の意向によるところが大きい」
明治天皇には15人の子があったが、うち男子は5人。だが成人したのは大正天皇だけで、女子10人のうち成人したのも4人のみ。子供は3分の2が幼くして亡くなった。
「そのため、後継者がいなくなることを恐れた明治天皇は宮家の新設を歓迎。皇太子(儲君)時代に2つ、即位後には7つの旧宮家が創設されており、後者は明治天皇自身が許可(勅許)したものなのです」(同OB)
立憲民主党や日本共産党が養子案に反対してきた論拠は、大きく2つある。一つは戦後の長きにわたって民間人だった家系が皇室に戻ることは「国民の理解が得られない」という点。80年間にわたって一般人として生活してきた人たちが突然、皇族になることに違和感を覚える向きも多いからだ。過去には経済活動の広告塔に担ぎ上げられた人や刑事事件に関与したケース、戦後の皇室が距離を置いてきた政治活動に関わった人物のほか、外国に帰化した例もある。
同OBは「表現はよくありませんが『世俗にまみれた』との印象を持っている国民は少なくないはずです」と話す。また野党からは「憲法が禁じる“門地”による差別に当たる」との指摘もある。つまり、家柄や出自で決まる社会的地位による差別を禁止した、日本国憲法第14条に違反するとの指摘だ。
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