3代にわたる「皇后バッシング」はなぜ起きたか? 各時代の「女性の社会的立場の変化が色濃く影響している」
「誕生日」という転機
宮内庁OBは回想する。
「『深夜まで職員を付き合わせてトランプや夜食を楽しんでいる』など、侍従職を経験した先輩の職員でも『確認できなかった』と言うような真偽不明な内容が多く、批判のための批判という印象は拭えなかったそうです」
精神的に追い込まれた美智子さまは同年10月、59歳の誕生日の朝に赤坂御所(現・仙洞御所)で倒れ、声を失う“失声症”を発症される。報道に憤慨した右翼関係者によって宝島社の本社や、文藝春秋の社長宅に銃弾が撃ち込まれるテロまで発生し、ようやくバッシングは沈静化したという。
同じく民間から皇太子妃となった皇后雅子さまもバッシングにさらされたことは今更、振り返るべくもない。1986(昭和61)年10月、来日したスペインのエレナ王女の歓迎行事があった東宮御所(同)で、外交官試験に合格したばかりの雅子さまと天皇陛下が出会う。
雅子さまはその後、お后候補として取りざたされるようになるのだが、外交官としてのキャリアをスタートさせたばかりということもあり、当時「キャリアウーマン」と呼ばれていた、働く女性の憧れの的となった。1992年のプロポーズを経て93年6月に結婚。出会いから7年半が経っていた。
「父親が外交官の家庭に生まれた雅子さまは、早くから自身も外交官になることに憧れを抱いていたため、既にスタートを切っていたその夢を捨てるかどうか、相当悩まれた」(前出OB)
それだけに2003(平成15)年12月、40歳になる誕生日の一週間前に帯状疱疹を発症し療養に入られた原因について、天皇陛下が翌04年5月、「外交官としての仕事を断念して皇室に入り、国際親善を皇族として、大変な、重要な役目と思いながらも、外国訪問がなかなか許されなかった」と、いわゆる“人格否定発言”の中で明かされた衝撃は大きかった。
小室眞子さんとの違いは
ある皇室関係者はこう話す。
「今の皇后陛下に対するバッシングの特徴は、ネット社会の到来と時代感覚の変わり目ということもあってか、批判がとにかく苛烈でした。同時に、根強い擁護の声もあったことです。ネットの掲示板は今のSNSにつながる匿名の『刃』。言いたい放題ですから。香淳皇后や上皇后陛下のケースとは次元の違う批判の激しさと数だった。でも、擁護する声もかなり多かった。こちらもやはり発信する術があるからです」
令和を象徴するSNSのように日常的に発信するものと、能動的に書き込むネット掲示板では、さらに次元が変わっている部分もある。だが、ネットリテラシーの問題が浮上するのは当然、ウィンドウズ95以降。つまり平成7年以降ということになるのは事実だろう。
「お世継ぎを産んで欲しいという声が、時代とは無関係に出てくることは予想できたはずです。それは皇后陛下も同じだったでしょう。でも擁護の背景には『なぜ男の子じゃなきゃだめなの?』とか『出産という奇跡への無理解が過ぎる』といった声なき声があったのだと思います。令和の今は当たり前ですが、皇后陛下がバッシングを受けていた頃に発信されていた擁護論は炎上しないことを前提にしたものだったから、目立たなかった。でも確実に結構、いや、かなり多かったことは間違いありません」(前出・皇室関係者)
さらに、前出の宮内庁OBはこう指摘する。
「皇后が3代続けて批判の矢面にさらされたのは、将来の皇后という特別な立場になる注目度の高さはもちろんですが、大げさに言えば女性の社会的地位が時代とともに変化してきたことの逆風を先頭でくらってしまったといった印象です。小室眞子さんのバッシングと同一視するような言説も拝見はしましたが、眞子さんのケースはむしろ芸能人の不祥事に似ている印象です。皇后3代にわたる、時代を象徴するような批判とは次元が違うように思うのです」
皇后3代がさらされた批判は、少子高齢化や離婚率の上昇、なかなか増えない女性管理職や女性政治家、保育所不足といった、女性が置かれた立場の変化に、時代が追いつけずにいることと無縁ではないのかもしれない。
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