前代未聞の“社長誘拐”で幕を開けた「グリコ・森永事件」…新聞が1面トップで報じた後に“報道協定”の大混乱 劇場型犯罪のウラで週刊誌記者はどう取材に当たったか

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 3億円事件とならぶ“昭和重大未解決事件”といえば、〈グリコ・森永事件〉だろう。1984年3月、社長誘拐という大胆な犯行にはじまり、「かい人21面相」を名乗る犯人は、警察やマスコミをあざ笑うかのような“挑戦状”を連発。青酸入り菓子をばらまくなど、食品会社を次々と脅迫した。新しいタイプの“劇場型犯罪”と呼ばれ、日本中を混乱に陥れた。

 警察は、犯人(キツネ目の男)の姿を現認しながら確保には失敗。別の現場では責任を痛感した捜査幹部が焼身自殺するなど、想定外の犠牲者まで出した。だが、最終的に2000年2月、すべての関連事件の公訴時効が成立。警察庁の広域重要指定事件としては、初の未解決事件となって、こんにちに至っている(注:現在、公訴時効制度は廃止)。

 この事件の報道は、当初から特異な経緯をたどった。しかも、これまた週刊誌にとっては実質的な取材時間が1日しかないという、切羽詰まった状況だった。この大事件の第一報を、どう報じたのだろうか。

「誘拐事件」と認識されるまで時間を要した理由

 1984(昭和59)年3月18日(日)夜、週刊新潮の若手記者A氏(当時20代後半)は、紀伊半島の最南端、和歌山県の小さな町にいた。この地域を地盤にする、某代議士に関する取材のため、夜10時すぎに着いたばかりだった。翌19日(月)いっぱい取材し、その夜から20日(火)早朝にかけて書き上げる予定だった。

 A記者は、駅前の小さなビジネスホテルにチェックインしてひと休みしたあと、腹ごしらえに、外に出た。日曜深夜とあって、ラーメン屋くらいしか開いていない。その店で、餃子をつまみにビールを呑みながら、店内のテレビをぼんやり眺めていた。やがて、テレビを見ていたA記者は仰天した。

「日本テレビ系の『きょうの出来事』だったと思います。兵庫県西宮の江崎グリコ社長宅に強盗が押し入り、江崎勝久社長が連れ去られたとのニュースが流れていました。社長宅前に大量の報道陣が詰めかけ、現場から生中継されていました」(A記者)

 A記者は、すぐに店内の電話で編集部に連絡しようとした。いうまでもないが、ケータイもスマホも、ない時代だ。ところが、その店の電話は〈ピンク電話〉なので、106番(コレクトコール)にかけられなかった。

 余談だが、これら“昭和の公衆電話”について、簡単に説明しておこう。〈ピンク電話〉とは、飲食店が個人で引いている回線電話を、客も有料で使えるようにした“特殊簡易公衆電話”のことである。薄いピンク色なので、そう呼ばれた。あくまで“ひとの家の個人回線”なので、基本的に10円硬貨しか使えず、市外通話や110番や119番、106番(コレクトコール)はできないなど、利用制限があった。ただし、店主が専用の“カギ”で回線を切り替えれば、通常の電話としても使用できるのだ。

 また106番(コレクトコール)とは、オペレーターを通じ、先方が料金支払いに応じたら通話ができるシステムのこと。これだと長距離通話でも、10円硬貨の手持ちを気にせず長時間、通話ができた(現在は廃止)。そこでA記者は、店主に頼んで“カギ”をあけてもらい、〈ピンク電話〉でコレクトコールにかけた。これも昭和の週刊誌記者の“常識”だった。

 案の定、編集部でもすでに騒ぎになっていた。電話に出たデスクによると、

「明日の朝刊での扱い次第では、どれか1本をボツにし、グリコに差し替えになると思う。この記事がボツになる可能性が高いけど、一応ギリギリまで、このまま進めていてくれ」

 とのことだった。A記者は、落ち着かない気分でテレビのニュースを見つづけた。

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