前代未聞の“社長誘拐”で幕を開けた「グリコ・森永事件」…新聞が1面トップで報じた後に“報道協定”の大混乱 劇場型犯罪のウラで週刊誌記者はどう取材に当たったか

  • ブックマーク

週刊誌にも“報道協定”が

 後述するが、警察庁と〈日本雑誌協会〉との間で、すでに“報道協定”が明文化されていたのである。しかしどこの雑誌編集部でも、「すでにこれだけ報道されているのだから、触れないのはかえって不自然」との意見が強かった。なにしろ、一度、大々的に報道されたあとに“報道協定”で自粛になるという、前代未聞のケースである。それだけに、週刊新潮でも検討がつづいていたのだった。

“報道協定”が誕生したきっかけは、1960(昭和35)年に東京・世田谷で発生したMちゃん(当時7歳)誘拐殺人事件だった。発生直後、いくつかの新聞社が事件を察知し、紙面で報道した。これを読んだ犯人が逆上し、Mちゃんを殺害してしまったのだ。世間は新聞社に対して批判の声をあげた。

 この事件の直後、〈日本新聞協会〉〈日本民間放送連盟〉などは、“身代金目的の誘拐事件では、捜査側と報道側が話し合い、その取り扱いに十分注意して自制する”という主旨の方針を明文化した。以後、誘拐事件が発生するたびに、捜査本部と記者クラブとの間で、この方針に基づいて話し合いがおこなわれ、報道の自粛が通例となった。

 これに対し、週刊誌や月刊誌が所属する〈日本雑誌協会〉は、特にその種の協定は結んでいなかった。誘拐事件のたびに、基本的に〈日本新聞協会〉に準じた対応が慣例となっていた。

 だが、出版界に総合週刊誌ブームが到来した。そこで1980年、警察庁刑事局長と〈日本雑誌協会〉の間で、《誘かい事件等に関する取材及び報道の取扱いについて(方針)》が明文化された。内容は、新聞・放送の対応とほぼおなじだった。

 つまり、1984年の江崎グリコ事件のときには、すでに週刊誌も、“報道協定”の対象だったのである。だが、いくら協定に従ったとしても、すでに報道されてしまっている。いまや日本中、知らぬものはいない大事件なのだ。

 そこで週刊新潮は、事件の最新情報ではなく、一度報道された事件が、途中から“報道協定”で自粛になった、その過程を検証することになった。そもそも先述のように、取材時間は1日しかない。発売されたころには、社長は解放されている可能性もあるのだ。実際、社長は週刊新潮発売前日の21日(水)に解放され、無事が確認されるのである(もちろん、その時点で“報道協定”は解除された)。

 ところで――3月19日(月)、朝から和歌山のビジネスホテルで待機していたA記者は、どうなったのだろうか。

次ページ:「大至急、グリコへ飛んでくれ!」

前へ 1 2 3 4 次へ

[3/4ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。