前代未聞の“社長誘拐”で幕を開けた「グリコ・森永事件」…新聞が1面トップで報じた後に“報道協定”の大混乱 劇場型犯罪のウラで週刊誌記者はどう取材に当たったか

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「大至急、グリコへ飛んでくれ!」

 A記者のもとへ編集部から連絡が来たのは、昼すぎだった。予想通り、某代議士の記事はボツになり、差し替えが正式決定。ようやく方針も決まり、上述のような“報道協定”をめぐる検証記事で行くことになった。さっそく帰京……かと思いきや、デスクからは、意外な指示が来た――「キミは、すぐ西宮に飛んで、現地の様子を取材してくれ」。

 A記者はホテルのフロントで時刻表を借りた。あいにく、うまい列車の接続がない――「あの~、どこへでも行きますが、いま紀伊半島の最南端なので、これから電車を乗り継いで西宮へ行くと、到着が夜になり、まともに取材できませんが……。いますぐ、東京から新幹線で向かう方が、早く着くと思うんですが……」

 と、ブツブツいっていると、電話の相手は、山田彦彌編集長にかわった。

「そんなことわかってるよ! いま、そっち方面にいるのは、キミしかいないんだよ! 頭に血を上らせて、とにかく大至急、グリコへ飛んでくれ! 今日はグリコなんだよ!」

 東京から見ると、紀伊半島の最南端も、兵庫・西宮も“そっち方面”の同エリアでくくられてしまうようだ。

 A記者は、ヤケクソ気味に、紀勢本線に飛び乗った。途中駅で夕刊を買うと、たしかにもう、事件には一切触れられていない。紙面のすみに小さく〈江崎グリコ社長事件でおことわり〉〈江崎さんの安全を第一に考え報道を差し控えています〉とあるだけだった(朝日新聞3月19日付夕刊)。

「暗くなったころ、西宮の江崎社長宅前に着きました。すると、昨夜のテレビ中継の騒ぎがウソのように、静まり返っています……と、どこからか人相の悪い男があらわれ、『オタク、どこの社? 取材はできないんだよ』と低い声で追い返されました。刑事だったようです」

 結局、A記者は、旧知の新聞記者に会い、昨日からの“報道協定”をめぐる混乱の過程をレクチャーしてもらうのが精いっぱいだった。

 記事は、《江崎グリコ 大報道のあとに出た「大管制」》(1984年3月29日号)となった。もちろん、発売時(3月22日)には、社長も解放され、“報道協定”は、解除されている。記事には、ベテラン推理作家・生島治郎氏の、こんなコメントがあった――「なぜ報道管制なんかするのでしょうか。朝刊で、誘拐があったこと、犯人の要求の内容、被害者の顔写真まで出しておきながら、今さら報道管制しても何も意味がないと思うのですがね。犯人には警察が関与していることだって分かってしまっているのですから……」

 記事の最後は、こう結ばれていた。

〈捜査員の間にも「これは、どうも身代金目的の誘拐事件じゃないみたいだ」という声が強いのだそうである。〉

 たしかにその後、事件はグリコはじめ、食品会社を対象にした企業恐喝事件へと変貌する。そしてA記者は、犯人〈かい人21面相〉が終息宣言を出すまでの約1年半、この事件の、ほぼ専従となり、今度こそ、東京から新幹線で関西へ通う日々となるのである。

森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。

デイリー新潮編集部

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