火事が起きたのも、夫が死んだのも、私のせい!? 結婚しても呪いは続く、ひのえうま女性の一生

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 日本で長く影響力を持ってきた「丙午(ひのえうま)生まれの女は男を食い殺す」という迷信に従って「今年は女の子を産まないようにしよう」と考える人は、もはや少ないでしょう。

 しかし、明治の丙午に生まれた女性の多くは結婚を敬遠され、酒井順子さんの著書『ひのえうまに生まれて 300年の呪いを解く』(新潮社)によれば、満州へ移民する若い男性の結婚相手を募集したところ、応募者のほとんどすべてが婚期を逃した丙午女性であったことが記されています。しかも「もっと若い女性がいい」とそこでも丙午女性は敬遠されてしまったのだとか。結婚をあきらめて職業婦人(こちらも差別されていた)の道に進まざるを得なかったり、さらには絶望のあまり命を絶つ女性も少なくありませんでした。

 また運よく結婚できても、嫁ぎ先で不幸があるたびに丙午生まれを持ち出されることもしばしば……。

『ひのえうまに生まれて』から、明治の丙午生まれ女性の生涯を描いた青島幸男の直木賞受賞作『人間万事塞翁が丙午』を考察するパートをご紹介しましょう。

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丙午生まれが結婚の障害に

 明治の丙午に生まれた女性がどのような人生を歩んだかは、青島幸男『人間万事塞翁が丙午』からも伝わってくる。放送作家、コメディアン、政治家等、多彩な顔を持っていた著者。この小説のモデルとなった母親が明治の丙午生まれとされるが故の、タイトルである。

 著者の最初の小説である同書は、1981(昭和56)年に刊行され、直木賞を受賞。昭和の丙午の15年後にして、丙午という事象を世に思い起こさせることになった。

 主人公のハナは、東京は板橋の生まれ。16の時に出会った日本橋の弁当屋の息子である次郎との結婚を望んでいるが、ハナが丙午生まれであることが、大きな障害となる。次郎の家では、もっとふさわしい嫁を、躍起になって探すのだ。

 姉妹の中でもハナは、丙午ということで「子供の頃から父親にも別の目で見られていた」。しかし生まれた年をどうすることもできず、「あたしばかりが何故」と、「理不尽な差別に腹の立てつづけ、親を呪」うハナだった。

 差別があったのは、家の中だけではなかった。奉公先においても、「ちょっと蓮(はす)っ葉(ぱ)な振舞いでもすれば、やれ丙午で気が強いの、大人しくしていれば気味が悪いのと、何につけてもいびられる」。

 しかし明治女のハナは、差別されてもメンタルを病んだり、

「丙午ハラスメントだと思います!」

 などといきりたったりはしない。次第にいちいち気にしないようになり、「その分、向う気が強くなり、しぶとく開き直るようになっていた」のだ。

「夫を早死にさせてはならない!」

その甲斐あって、次郎と結婚できることになったが、丙午という宿命はついて回る。弁当屋の仕事場で火事が出た時は、そもそもハナの嫁入りに反対していた姑から、

「昔の人は間違ったことは言わないね、丙午の女は火事を呼ぶってのは本当なんだね」

 と言われることに。江戸時代に八百屋お七が、想う男に会いたいがために火事を起こしたという話があるところから、丙午は火事と結びつけられることもあったのだ。

 次郎は、50代にして突然他界してしまう。その時にハナが思うのは、

「もしかしてあたしが丙午のせいかも」

 ということだった。

 明治の丙午女性は、この「夫を早死にさせてはならじ」というプレッシャーと、常に闘っていたように思う。昭和の丙午の前に見られた反丙午キャンペーンにおいては、大宅壮一氏夫人など、明治の丙午に生まれた女性達が駆り出されたが、その時はいつも「夫も元気にしている」ということがアピールされた。「男を食い殺す」とされる丙午女性だが、うちの夫は元気に生きているのだから大丈夫ですよ、と言っているのだ。

 明治の丙午女性の婚期に見られた反丙午キャンペーンにおいても、弘化の丙午の女性が幸福に生きる事例が紹介されたが、そこでも夫が早死にしていないということは、大切なポイントとなった。食い殺さないまでも、「妻が丙午だと夫が早死にするのでは」といった疑惑はあったのだろう。

 とはいえもちろん、夫を早く亡くすことになった丙午女性もいる。その時はハナのように自責の念を抱いたり、また周囲の人から丙午のことを持ち出されたりしたに違いない。丙午女性は、負わなくてもよい苦労や罪悪感を背負わされていたのだ。

坂口安吾の予言

 作家の坂口安吾は明治の丙午の生まれで、本名は「炳五(へいご)」。炳は丙午の意を持つのだと随筆「ヒノエウマの話」にはある。そんな安吾は子供の頃、親戚の老人達に頭など撫でられつつ、

「お前男に生れてよかったな、女なら悲しい思いをしなければならない」

 などと、よく言われたのだそう。

 この随筆が書かれたのは、1954(昭和29)年。昭和の丙午まであと一回り、という午年である。

 次の丙午に生まれる女性達も、多かれ少なかれ丙午による迷惑を被(こうむ)るだろう、と安吾は書いている。迷信は、精神の伝統から来るもの。いくら科学が発達しても消えないのであり、迷信をなくそうとするよりは、「ただ銘々の教養や勇気や楽天性によって自分がその受難者たることを避けるように心掛けるのが何よりであろう」とあるのだ。

 安吾の予言は、一部は当たり、一部は外れている。この随筆が書かれてから12年後に昭和の丙午がやってきて、子供の数は激減する。丙午の迷信は、確かに日本人の精神と共にあった。

 が、その時に生まれた女の子達は、明治の丙午に生まれた女の子のように、丙午が理由で結婚できないといったことは無かったし、ましてや丙午のせいで自殺をするケースも無かった。恋愛結婚の世になって、“銘々の楽天性”が、迷信を過去のものとしたのだ。

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