夏目漱石が『虞美人草』で殺した「ひのえうまの女」 名作に見る漱石の「ひのえうま差別」とは?

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 日本では江戸時代に「丙午生まれの女は男を食い殺す」という迷信が広がって以来、丙午女性は厳しい差別に遭ってきました。前回1966(昭和41)年の丙午では、前年に比べて出生数がなんと25%も減少。迷信だとわかっていても、周囲の声に影響されて女の子が生まれるのを避けようとした結果、出産そのものをあきらめた夫婦が多かったことを示しています。

『ひのえうまに生まれて 300年の呪いを解く』(新潮社)でこの迷信の持つ力の謎に迫ったのが、自らも丙午生まれのエッセイスト・酒井順子さん。ご自身は差別に遭ったことがないという酒井さんも、調べていくうちに明治の丙午女性がこうむったバッシングの苛烈さを知って驚愕したそう。

 その実例は明治の文学作品の中にも見られます。『ひのえうまに生まれて』より、夏目漱石の丙午女性バッシングを掘り起こしたパートを紹介します。

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丙午娘に振り回される小説『虞美人草』

 明治の丙午の翌年、すなわち1907(明治40)年に朝日新聞に連載されたある小説には、印象的な丙午の女性が登場している。その小説とは『虞美人草(ぐびじんそう)』、作者は夏目漱石。東京帝国大学の講師を辞めて朝日新聞に入社した漱石が、プロの作家として初めて書いた小説である。

 恩賜の時計をもらうほど優秀な成績で大学を卒業した小野は、博士号の取得を目指しつつ、ぶらぶらしている27歳。彼は、金持ちの娘である藤尾(ふじお)との結婚を目論んでいる。

 24歳の藤尾は、美しく、我儘で、激しい性格である。言いたいことは言い、したいことをする彼女と小野は、憎からず思い合っている。

 そんな時、小野のかつての恩師が、娘の小夜子を連れて東京にやってきた。恩師は、小野と小夜子を結婚させたいと思っているのであり、小夜子も口には出さねど、小野への思いを胸に抱いている。小夜子はおとなしく家庭的な女性であり、小野は二人の女性の間で揺れ動く……。

 では藤尾と小夜子、どちらが丙午として設定されているかというと、当然ながら藤尾である。『虞美人草』には、

「盼(へん)たる美目(美しい目もと)に魂を打ち込むものは必ず食われる。小野さんは危い。倩(せん)たる巧笑(愛らしい笑顔)にわが命を托するものは必ず人を殺す。藤尾は丙午である」

 と、藤尾について記されている。そこには「これは迷信だが」といった言い訳が入り込む余地はない。漱石は藤尾という女に、比喩的な意味であれ、人を殺すほどの強さと丙午の生まれを与えた。彼女は気が強いを通り越して我が強い性格であり、「我の女」と書かれているのだ。

 対して小野は、「何故こう気が弱いだろう」と自分で思うほどの性格である。結婚問題についても、いつまでもはっきりした態度を示さず、右往左往を続ける。

 気が強い女と気が弱い男は、日本では生きづらい。気の弱い男・小野は、我の女・藤尾に引っ張られた結果、小夜子を捨てて藤尾と結婚しようと決意する。しかし何せ気が弱いので、自分で恩師のところに断りを入れに行くことができずに代わりの男を送り込むのだが、その行為が恩師の逆鱗に触れ、友人達をも巻き込む大騒動になった。

 小夜子を捨てようとする小野を翻意させるべく友人が説得すると、小野もあっさり小夜子と結婚することを決意する。すると友人は、小野の結婚相手は小夜子だということを藤尾に知らしめるべく、小野、小夜子、藤尾を一堂に会させることに。

 小野と結婚するのは小夜子だ、とそこで知らされた藤尾は、激怒の後に「ホホホホ」と哄笑する。安牌(アンパイ)としてキープしておいた別の男に乗り換えようとするもふられてしまうと、その場でばったりと倒れるのだった。

 藤尾は結局、そのまま死んでしまう。悶死というのか憤死というのか、「我」を通すことができなかった藤尾の死は、

「我の女は虚栄の毒を仰いで斃(たお)れた」

 と、『虞美人草』には書かれている。

「我の女」が死ぬための物語

 当時の読者は、藤尾の死に溜飲を下げたのかもしれない。美しく高慢で、男を思い通りに扱おうとする「我の女」は、この小説のヒール役。小夜子というベビーフェイスをいじめたヒールが最後に皆の前で恥をかかされて死ぬというストーリーに、すっきりした人は多かったのだろう。

 しかし現代の読者である私は、藤尾のあまりに酷い叩かれ方に、憮然とする者である。

 気の弱い男・小野も、我の女・藤尾も、他者の気持ちを踏みにじるという部分では同罪なのだが、救済されるのは、気の弱い男のみ。女にとって「我が強い」という大罪は、死を以てしか償うことはできないと、漱石は示した。

 漱石は、彼の門下生であった小宮豊隆宛の手紙に、

「藤尾といふ女にそんな同情をもつてはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。徳義心が欠乏した女である。あいつを仕舞に殺すのが一篇の主意である。うまく殺せなければ助けてやる。然し助かれば猶々(いよいよ)藤尾なるものは駄目な人間になる」

 と書いている。

 漱石は、きっと個人的にも、藤尾的な性格の女は、好きではなかったのだろう。『虞美人草』は、我の女である藤尾が死ぬための物語であり、そんな藤尾は「丙午」なのだ。

 漱石の好みは、川端康成とは正反対と言うことができる。川端は「丙午の娘讃」に書いたように「美しくて、勝気で、剛情で、好戦的で、利口で、浮気で、移気で、敏感で、鋭利で、活溌で、自由で、新鮮な」丙午の娘が大好きだった。捨てる神があれば、拾う神もいるのだ。

藤尾は丙午でなくてはならない

 しかし藤尾の丙午には、一つ疑問が残る。藤尾はいったい、いつの丙午生まれなのか、という問題である。

 藤尾は、24歳と書かれている。『虞美人草』の連載が始まった1907年時に24歳なのだとしたら、単純計算して藤尾は1883(明治16)年生まれ。丙午ではない。

 明治の丙午の前の丙午は、1846(弘化3)年。この年に藤尾が生まれているとしたら、連載開始時は61歳である。弘化3年の丙午に生まれた女性が24歳の時という、少し昔を舞台にした話なのか。もしくは明治39年の丙午に生まれた女性が24歳になった時という近未来を書いたという可能性もあろう。

 しかし『虞美人草』には、小説が書かれた当時の事物が登場するのであって、過去や未来を舞台にした小説だとは考えづらい。とすると考えられるのは、藤尾は丙午の年ではなく、丙午の日に生まれたというケースだ。

 ちなみに漱石は、慶応3年1月5日(1867年2月9日)、庚申(かのえさる)の日に生まれた。さらには生まれたのが申の刻に当たるということで、「申の日の申の刻に生まれたものは、昔から大泥棒になるものだが、それを防ぐには金偏のついた字を名につければよいという言い伝えがあって、それで金之助という名をつけた」(『漱石の思い出』夏目鏡子)のだそう。

 生まれ年だけでなく生まれた日、時刻まで吉凶と結びつけられていた時代の申の日に生まれた作家が、自身の小説に登場するヒールを丙午の日の生まれに設定したとしても、不思議はあるまい。さらには、『虞美人草』の連載開始前年だった丙午の年が、漱石にとって非常に印象的でもあったのだろう。

 丙午伝説が迷信か否かなどはどちらでもよいことであり、男を殺すという「丙午の女」にインスピレーションを受けた漱石は、最後に死んでしかるべき女・藤尾を、とにかく「丙午」としたかったのではないか。

 稀代の丙午ヒール、藤尾。当時としては嫁きおくれ的な年齢だった彼女は、爽快なほど「我」を貫いて、死んでいった。そして『虞美人草』で、「徳義心が欠乏した」藤尾という丙午女性に死という罰を与えた漱石は、明治の丙午女性が結婚難に直面する苦悩を見ずして、1916(大正5)年に、49歳で亡くなっている。

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