夏目漱石は「殺し」、川端康成は「惚れ込んだ」 “ひのえうまの女”をめぐる真逆の文豪たち

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「丙午(ひのえうま)生まれの女は男を食い殺す」という迷信が300年以上も生き延びてきたのはなぜなのか?

 1966(昭和41)年の丙午に生まれたエッセイストの酒井順子さんは、その謎を明らかにすべく、著書『ひのえうまに生まれて 300年の呪いを解く』(新潮社)を刊行しました。60年ごとに時代を遡り、さまざまな文献を発掘する過程で酒井さんを驚かせたのは、明治の丙午差別が想像以上に苛烈だったこと。

 当時の空気感は文学作品の中にも残っており、夏目漱石が名作『虞美人草』の中で丙午女性をはずかしめ、死に至らしめたのは【関連記事】〈夏目漱石が”殺した女”とは 名作に見る漱石の「ひのえうま差別」とは?〉でご紹介した通り。

 しかし、その一方で丙午娘にたまらない魅力を感じた作家も存在したのです。その作家とは川端康成。川端があられもなく丙午愛を叫ぶ様子を『ひのえうまに生まれて』からご覧ください。

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丙午娘にメロメロだった川端康成

 明治の丙午に生まれた女性達がその人生で受けた丙午の影響を知るにつけ、60年という年月がもたらす変化の大きさを知る私。しかし明治の丙午の女性に対して、丙午を全く気にしないで接する男性もいた。中には、丙午という属性にグッとくるという特殊な男性もいたのであり、それが川端康成である。

 川端の「丙午の娘讃」はタイトル通り、丙午の娘を讃美する随筆だ。川端はなぜ、丙午の女性の自殺が初めて新聞に載ったのは大正10年、などとチェックするほど丙午女性を気にしていたのだろうか。

 大阪から上京して旧制一高に入学した川端は、20歳の時、本郷のカフェによく行くようになった。そこで出会ったのが、東北出身で13歳の女給・初代(はつよ)である。それは川端の初恋だったのであり、帝大生になった川端は、初代と結婚の約束を交わす。

 しかし婚約した翌月に初代から届いたのは、婚約破棄を告げる手紙だった。破棄の理由は詳しく書かれておらず、“大人の事情”的なものがあることをわかってほしい、と匂わされるのみ。16歳の少女から別れを告げられ、煩悶の中で書いた随筆が「丙午の娘讃」だった。

 この随筆には、「私が知っていた十六の丙午の娘」、つまりは初代も、

「午が祟(たた)っていたんですわね。」

 と、自身の過去の不運を嘆いた、とある。彼女は自分の将来についても、

「どうせ私には水商売がいいんですわ。丙午ですもの。」

 と言っていたのだそう。

 初代との別れは、川端に深い傷をもたらした。その傷をなぞるかのように、初代をモデルとした小説群が書かれるのだが、そこでも丙午に触れた彼女の台詞は使用されている。

 とはいえ川端は、初代に押された丙午という烙印を、憂えたり哀れんだりはしていない。むしろその烙印があるからこそ、初代に吸い寄せられているかのよう。

「丙午の娘讃」には、丙午の女性は男を食い殺すといった話は迷信だろうとしつつも、それを信じたくてたまらない心情が漏れ出ている。

「美しくて、勝気で、剛情で、好戦的で、利口で、浮気で、移気で、敏感で、鋭利で、活溌で、自由で、新鮮な娘が、丙午年生れに多い」

 と書かれているのであり、「こんな娘が他のに比較して格段と多く丙午の年に生れたのは何故であるか」と、問うている。

 川端が挙げる丙午娘の特徴は、そのまま初代の特徴であり、川端が初代に惹かれた理由でもあろう。川端が感じた丙午気質は、素直、従順といった、当時の一般的な男性が好んだに違いない気質とは正反対のものであったが、自身を引きずりまわして混乱させる手に負えない気質をこそ、川端は愛したのだ。

戦いと勝利との娘

 川端は、そのような気質を持つ娘が丙午に多い理由を、導き出してもいる。明治39年に生まれたということは、明治38~39年にかけて母の胎内にいたということであり、丙午の娘達は、日露戦争の戦勝ムードの中で胎児時代を過ごした「戦いと勝利との娘」なのだ、と。

 俳人の鈴木真砂女(まさじょ)も明治の丙午の生まれだが、天真爛漫で怖いもの知らずの自身の性格について、

「私は日露戦争の戦勝気分で、国中が浮かれていたときに生まれた突然変異だ」

 と語っていたと、娘の本山可久子が著した『今生のいまが倖せ…… 母、鈴木真砂女』にはある。

 川端もまた、「凱旋兵士と彼らを本国に待侘びた女との感激と歓喜との結合によって宿ったのが、丙午の娘」とし、

「彼女らが男を殺すのは当然である」

 と書くのだった。

「殺す」とは「いい意味の比喩である」とさらに続くのだが、丙午の娘に“殺された”川端は、傷つきながらも、彼女を恨んではいない。むしろ、別れを告げられてなお「讃」を捧げるほどに丙午気質を愛(め)で続けるのであり、そんな明治の丙午女に、昭和の丙午女としては感嘆するばかり。

 丙午の1年前の1905(明治38)年には阿部定(あべさだ)、1年後の1907(明治40)年には人見絹枝という、明治を代表する強い女が生まれている。それらを見ても、川端の“日露戦争胎教説”は、何やら信憑性を帯びてこよう(しかし人見絹枝は、1907年の元日生まれ。本当は丙午の年末に生まれていながら出生届を遅らせた可能性も、ありそうである)。

 対して昭和の丙午前夜には、日露戦争勝利のような、胎教に影響しそうな出来事は起こっていない。昭和の丙午女である我々は、同級生の数が少なく競争が激しくないことを「ラッキー」などと思う、平和でおめでたい世代として生まれているのだ。

 明治の丙午女は、昭和の丙午女よりも丙午による実害を多く受けてはいるが、ぬくぬくと育った昭和の丙午よりも、かえって腹が据わっているのは疑いのないところ。まさに、人間万事塞翁が丙午、である。

【関連記事】〈夏目漱石が”殺した女”とは 名作に見る漱石の「ひのえうま差別」とは?〉では、川端康成とは対象的に漱石が作品のなかで「ひのえうま」バッシングをご紹介している。

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