小説家はいつから「偉人」になったのか “フランスかぶれ首相”が小説家の地位を「爆上げ」させた晩餐会

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 江戸時代には、小説などの読み物を創作する人は「戯作者(げさくしゃ)」と呼ばれ、その社会的な地位は必ずしも高くありませんでした。

 しかし今では、小説家に対して一定の社会的な地位と評価が与えられ、人気作家ともなれば、政府の有識者会議に呼ばれたり、テレビでコメントを求められたり、死去の際には新聞で写真入りで報じられたりするのが当たり前になっています。

 では、いつから小説家はこのように「偉人化」したのでしょうか? 文学研究者の木村洋・上智大学教授の新刊『「蒲団」の時代:自然主義とは何だったのか』(新潮選書)によれば、小説家が偉人となったのは1907年(明治40年)のことだったといいます。同書から一部を再編集して紹介します。

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偉人化する文学者

 文学の社会的影響力の高まりを、新たな角度から眺めてみたい。注目に値するのは、日露戦争後に文学者が新たな偉人としての地位を揺るぎないものにしていくことである。社会はこの新たな偉人を備えつけることで、自己のありようを更新しつつあった。

 ちなみにここで言う偉人という言葉を、諸分野の読者に読まれる有力な出版物の紙(誌)面や公的な場で手厚い扱いを受けるに足ると見なされた者と定義したい。偉人はときに新聞の紙面の数段分を占領したり、ときに論壇誌や権力者によって敬意の対象としてもてなされたりするかたちで現れる。

 日露戦争より前から典型的な偉人として、国民統合や国威発揚にいそしむ政治家や軍人がいた。のちに述べるように、この旧式の偉人に挑むかたちで、文学者という新しい偉人が日露戦争後の社会に君臨していく。

 明治時代において小説の高尚化と文学者の地位向上は、一体のものとしてあった。坪内逍遙『小説神髄』(松月堂、1885~86年)以来の文学史が物語るように、西洋文学との出会いをつうじて、戯作と蔑まれた小説を高尚化する企てが精力的に推し進められた。その結果、徳川時代から戯作者と言われた小説家は、「文学者」という厳かな名前で呼ばれる地位を手に入れていく。高度な知性や精神的な指導力を備えた外国の文学者像を日本の文学界に移植していく動き(たとえば内田魯庵「再び今日の小説家を論ず」『国民之友』1893年9月13~23日、署名不知庵主人)も、そのような努力の一角を形づくる。

 この文学改良の歩みのなかで、目覚ましい年として記憶されたのが1906年だった。これまで有力な小説家と見られていなかった国木田独歩と島崎藤村と夏目漱石の小説が、1906年に大きな反響を巻き起こした。この3人のような、戯作者気質を脱した、相当の学識素養をもつ小説家が相次いで現れたことを、ある時評は1906年の画期的な出来事と見なした(思潮子「丁未文壇」『東京二六新聞』1907年1月3日)。

西園寺首相が催した「文士招待会」

 この気運に陰に陽に刺激を受けてだろう、1907年から文学者の地位向上の動きは、文学界の外側をも巻き込むかたちで、大がかりな変化を被っていく。まずこの年に思いがけない人物の手になる文化人の地位向上の企てが、新聞を騒がせた。

 西園寺公望首相は2月25日に俳優招待会を催した。これは永田町の首相邸で西園寺が正装した俳優たちと晩餐をともにし、歓談した会を指す。この会は西園寺による俳優の地位向上の試みとして催された。

 続いて6月17~19日に西園寺首相は文士招待会を催した。西園寺はこのとき20名の文士を駿河台の私邸に招いて晩餐をともにした。

 招かれたのは柳川春葉、田山花袋、広津柳浪、川上眉山、小栗風葉、小杉天外、森鴎外、泉鏡花、後藤宙外、徳田秋声、巌谷小波、幸田露伴、塚原渋柿園、大町桂月、内田魯庵、国木田独歩、島崎藤村、坪内逍遙、夏目漱石、二葉亭四迷だった。近松秋江(西園寺に近い竹越与三郎と知り合いだった)がこの人選をした。このうち逍遙と漱石と二葉亭は欠席した。漱石は欠席を西園寺に伝えるとき、「杜鵑(ほとゝぎす)厠(かはや)なかばに出(で)かねたり」という俳句を添えて、漱石流の諧謔を発揮した。

 一国の首相と文学者たちが半ば公的なかたちで会合をもったのは、歴史上初めてだった。いっせいに新聞はこの珍しい催しを詳しく報じた。たとえば『国民新聞』は参加者の服と席の配置と会話の内容、料理を誂(あつら)えた店の名前、酌をする新橋の7名の芸者の名前、小栗風葉の酒量の多さと酩酊の深さ、当夜の小説家の感想などを伝えた。

 このとき『毎日電報』が西園寺と文士たちの写真を4段にまたがるかたちで掲げたことが目を引く(無署名「昨夜の首相邸」『毎日電報』6月18日)。文士招待会をきっかけにして文学者の偉人化が促された様子を、この紙面は映し出している。出版界への文学者の支配力の高まりが、ここに象徴的に表れている。

「厄介者」から「高尚な文学者」へ

 西園寺はたんに物好きから文士招待会を催したのではなく、かなりはっきりした意図をもっていた。文士たちを前にした西園寺は、日本とは異なる、フランスでの芸術家の厚遇ぶりを説いた。「兎に角芸術の士を重んずる程度は日本人の想像以上です俳優にしましても彼国(あちら)では大統領が観劇に行て芸に感ずると其俳優に大統領自ら佩(おび)て居る一等勲章を即坐に与へてしまふ」。

 西園寺はかつてフランスに10年間留学した。このときに知った文化的な先進国たるフランスの流儀を、その後進国たる日本に持ち込もうとする思いが、文士招待会につながった。この事情だけではなく、先に述べたように明治の小説が戯作の境涯から脱し、西洋流の高尚さをまとうようになったことも、背景の一つだっただろう。

 文士にとってこの催しは、またとない栄誉にちがいなかった。出席者の一人(柳川春葉)はそのうれしさを口にした。「何はさて招待の文面が頗る鄭重を極めたものです………自分は光栄と思つて居ます」。別の小説家(巌谷小波)はこの催しに自信を深めたらしく、こう述べた。「〔文士招待会は〕外国では珍しい事ではないが日本では破天荒の事です、天長節の夜会などにも文士を招待するのが当然である」。

 人々もこの報道の過熱ぶりに強い印象を受けた。「従来社会より厄介者扱ひにされた一般文士の沽券をして大に相場を狂はせたやうである」と新聞記事は述べた。詩歌の優劣を小説家と論じるふるまいが宰相の行為なのかと難じた新聞記事があったことも、その異例さを物語る。

※本記事は、木村洋『「蒲団」の時代:自然主義とは何だったのか』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

木村洋(きむら・ひろし)
1981年、兵庫県生まれ。高校時代に丸谷才一の本に出会い、文学研究に興味を抱く。2010年、神戸大学大学院人文学研究科博士後期課程修了。 熊本県立大学文学部准教授などを経て、上智大学文学部教授。博士(文学)。専門は日本近代文学。著書に『文学熱の時代:慷慨から煩悶へ』(名古屋大学出版会、サントリー学芸賞)、『変革する文体:もう一つの明治文学史』(名古屋大学出版会)。2026年に『「蒲団」の時代:自然主義とは何だったのか』(新潮選書)を刊行。

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