“原爆の爪痕”に肉薄した『ヒロシマ』の衝撃…巨匠・土門拳“金字塔的写真集”の原点は創刊2年目の「週刊新潮」にあった
特別レポート〈八月六日の遺産〉とは
週刊新潮は、1956(昭和31)年2月に創刊した。その約1年半後、1957(昭和32)年8月12日号に、〈特別レポート 八月六日の遺産~はじめてルポされたABCC(原爆傷害調査委員会)の実態〉と題する記事(6頁)と、グラビア(5頁)が掲載された。
広島市南区にある小高い丘の比治山上に、カマボコ型の建物が5棟あり、ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission=原爆傷害調査委員会)と呼ばれていた。原爆症の調査・検査をおこなうアメリカの施設であることくらいはわかっていたが、このなかで具体的になにが行われているのかは、一般には、ほとんど知られていなかった。
ここへはじめて、本格的な取材班として入り込んだのが、週刊新潮だった。このレポートで、当時多くのひとがおどろいたのは、ABCCが、てっきりアメリカ政府の関連機関だと思っていたのが、そうではなかったということだった。
〈ABCCはアメリカの軍事機関でもなければ、外交機関でもない。所長の説明によれば、米国科学研究学術会議という民間団体の調査執行機関である。(略)昭和21年、当時GHQの公衆保健福祉局長だったサムス大佐(のちに准将)が「放射線の人体におよぼす影響を永久的に調査する必要がある」旨をマッカーサー司令官に建議した。これが米国政府に伝わり、(略)開設の命令が下った。〉(前記特別レポート記事より)
最初の派遣は1947(昭和22)年で、少人数だった。だが、やがて、単に「原爆症」のひとくくりで呼んでいた症状が、
〈熱線による火傷(ケロイド)、爆風による打撃、放射能による機能障害と分類され出し、白血病や慢性貧血などの多様な徴候も目立ってくる。ABCCは、これらの“死の様態”を追いながら、調査機構をひろげ、整理してゆく必要に迫られた。〉
ABCCは次第に大きな組織となり、GHQは日本政府に協力を求めた。そこで厚生省・国立予防衛生研究所が、アメリカ人職員のアシスタントという形で協力することになった。
1951(昭和26)年、サンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本は主権を回復した。その際、アメリカ側は先手を打って「ABCCの調査を継続したい」と申し入れた。日本政府はこれにOKを出した。かくしてABCC職員は外交官に準ずる待遇を受けることになった。だが、主権回復した日本の医師法では、診療行為は、日本政府が発行した医師免許が必要である。アメリカ人職員は「法令違反になるから治療はできない」と言い出し、実際の診療行為はすべて日本側に指示を出してやらせ、アメリカ側は日本側が集めたデータを見て、総合判断を下すだけという、微妙な“主従関係”ができあがった。
では、アメリカ側は、どんなデータを集めさせ、なにを研究していたのか。そこを徹底的に衝いたのが、週刊新潮の特別レポートだった。この取材班に、ひとりのカメラマンが同行していた。土門拳である。
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