猪木でも三沢でもない…しかし、いつの時代もその名が挙がる「歴代最強のプロレスラー」とは? 「正直に言うと、現役中は100%の力で闘ったことがないよね」

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必殺技の伝承

 1996年、まだ鶴田も現役だった当時、雑誌で「格闘戦士『俺のベストバウト』」という企画があった(「FLASH」同年6月18日号)。レスラーが、自ら選んだ過去最高のファイトをあげるという趣向だった。鶴田の名前が2度上がった。天龍、そして三沢が、鶴田戦をあげていたのだ。

〈ジャンボにフォール勝ちしたときは嬉しいというか、プロレスに入って俺もここまで来たんだと、自分自身を褒めてやりたい気持ちがありましたね。いまはあのころのような試合をやりたいという欲求があって、あのころの夢を追いながら、いろんなヤツと闘っている。今日の俺があるのはジャンボのおかげ〉(天龍。鶴田に勝利した1989年6月5日の試合をあげ)

〈自分にとってターニングポイントの試合でしたね。三沢がプロレスラーとして認められるかどうかの瀬戸際でしたから〉(三沢。素顔での初シングルで大逆転勝利を収めた1990年6月8日の試合をあげ)

 天龍がその後、高田延彦、武藤敬司、果てはオカダ・カズチカらと名勝負を展開し、三沢が全日本プロレスの盟主となったのは知られるところだ。三沢は件の鶴田戦を「三沢光晴という存在を、認めて貰えた試合」と繰り返し、若き頃は鶴田の付け人だったことを振り返り、その訃報に涙を流している。

「お兄さんみたいな存在で……。引退してからも、『何が起ころうと、僕はミチャワ君(※鶴田による、三沢の愛称)の味方だから』と言ってくれた。いつも僕を見守ってくれてると思い、今後もやって行きたい」

 鶴田逝去の翌月、三沢は自身の新団体「NOAH」の設立を発表。全日本プロレス時代とはうって変わり、他団体のリングにも積極的に出陣した。その最初が、元新日本プロレスの橋本真也とのタッグ対決だった(2001年3月・ZERO-ONE)。三沢が橋本にフォール勝ちしたが、取材した筆者には妙な違和感があった。フィニッシュがバックドロップだったのだ。三沢は同技を先ず使わないし、使うとしても相手の腿を持って投げるオールドスタイルだった。ところがこの時は、胴に手を巻きつけて投げる、鶴田型だったのだ。

 珍しいこともあるもんだと思いつつ、三沢による他団体参戦2戦目も取材した。同じZERO-ONEの4月の日本武道館大会で、なんと2日前に出場が緊急決定しつつも、力皇猛を従え、メインで話題を呼んでいた猪木の団体、UFOの小川直也と村上和成のコンビを下した。フィニッシュは村上への、またもバックドロップ、それも、3連発だった。試合後、日付を見て、驚いた。

「(2001年)4月18日」

 それは、ちょうど10年前、三沢が鶴田にバックドロップ3連発で完敗したのと同日だった。場所も同じ日本武道館。もちろんバックドロップは鶴田式で、最後は驚くほどの高角度だった。以降、寡聞にして、三沢がバックドロップをフィニッシュにした試合を聞いたことがない。

 三沢も鬼籍に入り、このフィニッシュの真意はわからない。だが、偶然の符合ではないと、筆者は思いたい。

※1=「週刊ゴング」レーティングスより。1989年は天龍、長州の後に次ぎ、1990年は武藤敬司、三沢、1991年は三沢、武藤の新世代に次ぐ3位だった。

瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。早稲田大学政治経済学部卒。フジテレビ「カルトQ~プロレス大会」の優勝を遠因に取材&執筆活動へ。現在、約1年ぶりの新著『10.9 プロレスのいちばん熱い日 新日本プロレスvsUWFインターナショナル全面戦争 30年目の真実』(standards)が重版出来中。

デイリー新潮編集部

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