猪木でも三沢でもない…しかし、いつの時代もその名が挙がる「歴代最強のプロレスラー」とは? 「正直に言うと、現役中は100%の力で闘ったことがないよね」

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全日本プロレスに就職します

 実際、ミュンヘン五輪が終わった翌月末には全日本プロレス入りとなった。アマレスの練習では後輩を捕まえ、既にスープレックスを試していたという。入団会見での鶴田の挨拶は語り草となっている。

「僕のような大きな体の人間が就職するのには、全日本プロレスが一番適した会社かと思いまして。尊敬する馬場さんの会社を選びました」

 この挨拶は意訳され、総じて、こう言われることとなる。

「全日本プロレスに、就職します」

 前出の坂口のようないざこざもなく、就職先の一つとして、プロレスを選ぶ。爽やかさに加え、プロレス界が新たな時代に突入したことを予感させた。

 鶴田の実力はプロ入り後も抜きんでていた。先ずは海外での修行となったが、教わった投げ技を寸分の狂いなく再現できたことから、“ミスター16ミリ(フィルム)”と渾名され、誰もが「アイツは天才だ」と舌を巻いた。米国でのデビュー2カ月後には、最高峰の王座NWA世界ヘビー級王座に挑戦。王者ドリー・ファンクJrを相手に惜敗はしたが、計52分ものロングタイムを戦い抜いた。日本デビュー後のキャリアも順調そのもの。東京スポーツの制定する年間最高試合賞(ベストバウト)は1976年から3年連続で受賞している。ところがこの頃から、ありがたくない異名で呼ばれることになる。

「善戦マン」――テレビ朝日のバラエティ番組の人気キャラクター、「デンセンマン」を文字ったものだが、「良い試合はするが結果が出ない」「今一つ、ピリッとしない」というファンの気持ちを内包していたと思う。実際、鶴田の試合運びには余裕があった。相手をパイルドライバーに持ち上げ、そのまま落とさずに四方にターンしてから落とした。ファンやリングサイドにいるカメラマンへのサービスとはわかるのだが、緊張感やドラマ性とは無縁の試合が続いた。「就職します」の名言も、次第に“試合をこなすだけの、サラリーマン・レスラーの表徴”としてみられて行く。

 1985年、当時のマット界を席券していた長州力が、鶴田のいる全日本プロレスを主戦場にしても変わらなかった。当時は鶴田、藤波辰巳、長州、天龍が新世代の4強とされ、長州はこれを「俺たちの時代」と称し、マット界の中心になることに燃えていた。ましてや長州も、鶴田と同じミュンヘン五輪のアマレス代表ということで注目されたが、2人の一騎打ちは60分時間切れのドロー。そして、試合後の鶴田が意気揚々と夜の街に繰り出した反面、長州は疲労困憊で、控室でうずくまっていたという逸話が語られることになる。

 しかし、それらが発覚したのはあくまで後年のこと。当時は、60分のタイムアップ寸前に、鶴田が長州にかけた技が逆エビ固めだったことが物議を醸した。到底勝負が決まるような技ではなかったことで、鶴田の闘気の無さを指摘されたのである。実際、長州戦の直後、鶴田の宴席につきあった渕正信は、「あの時の鶴田さんは上機嫌で、珍しく酒を飲んでいた」と語っている。それは、“長州に対して、余裕を見せることが出来た”という鶴田なりの会心の表れではなかったか。

 ただ、師匠の馬場だけは、よく解説やインタビューで、こう繰り返していた。

「鶴田と彼ら(長州力や、配下の谷津嘉章など)を、一緒にしてもらっては困るんですよ」

“そもそもレベルが違うのだ”と言いたげだった。
 
 それがわかったのが1987年。長州らが全日本から離れ、鶴田のタッグパートナーだった天龍が反旗を翻してからだった。“天龍革命”と呼ばれるこの蜂起の理由の一つが文字通り、「鶴田を本気にさせること」だったから、鶴田もたまらない。2人でガンガンやり合い、抗争3年目の1989年4月20日には、鶴田がパワーボムで天龍を失神KO(その後、天龍は約1ヵ月欠場)。おりしも“天龍革命”にあたり、天龍自身が言っていた心配ごとが的中した。

「もし鶴田が本気になったら、一番困るのは、俺自身かも知れないけどな(苦笑)」

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