猪木でも三沢でもない…しかし、いつの時代もその名が挙がる「歴代最強のプロレスラー」とは? 「正直に言うと、現役中は100%の力で闘ったことがないよね」
「怪物」と呼ばれ
パワーボムで天龍を失神させた鶴田の後年の述懐も残っている。
〈「ちょっと、やり過ぎちゃったかなあ?」と〉(日本テレビ「ジャンボ鶴田引退スペシャル」。1999年3月14日放送)
1990年に天龍が全日本プロレスを離れても、鶴田の強さは変わらぬどころか、むしろ加速した。2代目タイガーマスクの覆面を自ら脱ぎ、新世代のエースに名乗りをあげた三沢光晴との初の一騎打ちこそ返し技で一敗地にまみれたが、リマッチでは伝家の宝刀・バックドロップ2発でリベンジ。3戦目となる1991年4月18日の日本武道館での一騎打ちでは、伝説となる急角度のバックドロップ3連発で完勝。試合後、鶴田は、珍しく感情を露わにした。この前月、天龍は新団体SWS東京ドーム大会のメインで、ロード・ウォリアーズにリングアウト負け(パートナーはハルク・ホーガン)、長州は前年6月に、進境著しい橋本真也にシングルでフォール負けしていた。それもあってか、鶴田はこう吼えた。
「天龍、長州は、何してるんだって! 元気ないじゃねえかよ! 『俺たちの時代は、まだまだこれからだぞ』って、俺は今日、見せたかったんだよ!」
この時期、鶴田に新たな異名がついた。「怪物」。人間離れかつ、デモニッシュな響きの反面、嬉しいこともあった。専門誌の日本人選手人気投票で3位を堅持したのだ(※1)。投票理由のほとんどが、「やっぱり鶴田は強かった」「文句なく最強だから」と、その強さを讃えるものだったという。
1992年にB型肝炎を患い、長期欠場へ。翌年10月に復帰も、以降は肝臓の様子を鑑みてのスポット参戦となり、1999年2月、引退を表明した。翌月、第2の人生として、研鑽を積んでいたスポーツ生理学の教授待遇で渡米する前、自身の強さについて語った、貴重なインタビューがある。
〈正直に言うと、現役中は100%の力で闘ったことがないよね。常に70%の力でしか試合をしてこなかった。ハンセンとかブロディと闘う時は95%の力を出したけど、それでも100%じゃなかった。(中略)だから、病気以外、僕は誰にも負けません〉(「週刊プレイボーイ」2000年6月6日号)
また、引退会見で、「前田日明と闘ってみたかった」と語ったのも、その意外性とあいまって大きく報じられた。だが、同時期、こう語っていたことは、あまり知られていない。
〈レスラーっていうのは、負けてもいいから強いヤツとやりたいんですよ。(中略)そういう点では前田選手がアレキサンダー・カレリン(五輪3大会連続金メダル獲得のアマレスラー)と試合をしたというのは素晴らしいことだと思いますし、羨ましいと思います〉(メディアワークス「オーバー・ザ・シュート」より)
全日本プロレス一筋に生き、多様な選手と絡んだとはまるで言い切れない鶴田らしい羨望ともとれた。
2000年5月、臓器移植の失敗による出血多量で、フィリピンで客死。100%を出し切ることがなかった最強の男が、プロレス界に残したものは何なのか。
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