共産党元幹部の衝撃告白に、新左翼リーダーの「官邸占拠計画」も…週刊誌の「独占手記」が時代を揺るがした理由
「手記にまとめましょう!」
週刊誌の人気企画に「手記」がある。事件や騒動の渦中にいる人物に“真実”を語ってもらうもので「独占手記」「告白手記」などと銘打たれることもある。週刊新潮は、その70年の歴史のなかで、数々の話題の「手記」を掲載してきた。
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なかでも、世間を騒然とさせ、一躍、部数が伸びるきっかけとなったのが、1978年の“袴田手記”である。袴田里見氏(1904~1990)は、日本共産党の元幹部。戦前の非合法時代から何度も逮捕・釈放されながら共産党活動に邁進してきた、筋金入りの党員である。戦後は中央委員などを経て、党副委員長に就任した。
しかし、1977年10月の共産党大会で、突如、副委員長のポストから外された。どうやら、宮本顕治委員長と“確執”があるらしいとも伝えられた。いったい、何が起きているのか。当時の野平健一編集長(1923~2010)は、「袴田さんの話を聞いてみようじゃないか」と発案し、山田彦彌デスク(1932~1999、のちに編集長)が担当になった。当時を知るOB氏の回想。
「ところが袴田さんは、『党内問題には一切触れたくない。顔を合わせるだけなら、会ってもよい』との返事でした。とりあえずヒコヤさんは、三鷹の袴田邸へ出かけたものの、最初は、目を合わせてもくれなかったそうです。ところが雑談を重ねているうちに、ヒコヤさんの真摯で豪快な人柄に魅せられたのか、次第に、微妙な内輪話を語り始め、そのまま6時間、驚くべき“告白”をつづけました。聴き終わったヒコヤさん自身も興奮状態だったそうで、最後にひとこと、『手記にまとめましょう!』」
それが、袴田里見氏の手記《「昨日の同志」宮本顕治 真実は一つしかない》(1978年1月12日号)だった。
〈これが、五十年来、生死をかけてきた同志に対する仕打ちなのだろうか。自分の意見に従わないものは、病気であろうが何だろうが、あらゆる方法で痛めつける。これが労働者のための前衛党の指導部の姿なのだろうか。〉
この調子で、手記は、宮本委員長の“非情”の実態を、2週連続で細かく暴いた。第1回は10ページ、第2回は12ページと、週刊誌としては異例のスペースが費やされた。幹部用に貸し出されていた血圧計を、「もう幹部ではないから」と回収されたり、身辺警護のはずのボディガードが実は“スパイ”で、動静を密告されていたりなど、笑うに笑えないエピソードが続々登場した。
もちろん、世間は大騒ぎとなった。野党とはいえ、それなりに歴史を持つ一政党の副委員長が、委員長を名指しで批判したのである。
「それどころか、共産党は、発売前に“袴田手記”をどこからか入手していたのです。発売2日前の『赤旗』で、その内容に細かく大反撃を展開していました。そして袴田さんは、党を除名されました」(OB氏)
実は、それまで週刊新潮は、日本共産党に対し、共鳴とまではいかずとも、極めて興味津々の立場で接していた。現に、その3年前には、宮本顕治委員長の手記《特別読物 私自身の「昭和史」》(1975年1月2日号)を掲載していたのだ。16ページにわたる長大な手記である。つまり、手記を寄せた人物に、今度は別人の手記で切り返したのだ。
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