共産党元幹部の衝撃告白に、新左翼リーダーの「官邸占拠計画」も…週刊誌の「独占手記」が時代を揺るがした理由

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週刊新潮に登場した、新左翼リーダーの「手記」とは

 それは、《手記 日本革命のための計画》と題されていた(1976年1月1日号)。筆者は、〈藤本敏夫 元反帝全学連委員長〉。藤本敏夫氏(1944~2002)は、歌手・加藤登紀子さんのご主人である(1972年に獄中結婚)。

 手記は冒頭、〈この手記を書きはじめた12月14日、女房の登紀子が2人目の子を無事に産んだと電話で知らせてきた。〉と始まるが、この〈2人目の子〉が、現在、シンガーソングライターとして活躍するYae(やえ)である。

 藤本氏は、元同志社大学の学生で、共産主義者同盟(通称「ブント」)に所属する運動家であった。その後、反帝全学連の委員長に就任。日本の学生運動のリーダーとなる。

「もちろん、彼らの主張を喧伝するための掲載ではありません。担当重役で“新潮社の陰の天皇”斎藤十一氏が、『いったい、あの連中は、何を考えているんだ。本気で革命を起こせると思っていたのか』と疑問をもち、ならば、“いっそ、当人に語らせてみたら”と企画したのです」(OB氏)

 この手記は、“政治の季節”が一段落し、藤本氏が、自然農法の世界に入った時期に発表されている。つまり一種の回想記なのだが、これが、ある意味、なかなかユニークな手記なのである。

 たとえば藤本氏たちは、当時、六本木にあった防衛庁に“突入”したことがある。

〈われわれの部隊は、2台の車に分乗し、防衛庁正門前にとめ、社学同の旗をかかげ、赤ヘルにゲバ棒を持って突入した。この一隊に対し、防衛庁の門衛は「モシモシ、どなたですか」と尋ねた。ゲバ棒を持った集団に「どなた?」もないものだが、部隊はそれを機にかけ足で防衛庁の建物に入った。/が、2階に上る階段もわからず、いちばん近くの通信室へ入り、早速、バリケードを築いた。たてこもること数十分。やがて駆けつけた機動隊に全員が逮捕された……(略)〉

 やがて〈赤軍派〉が結成され、藤本氏も参加する。〈赤軍派〉は「前段階武装蜂起」と称して、なんと「首相官邸占拠」を計画した。大学を占拠して本部を封鎖することができたのだから、それを〈今度は国家的次元でやってみよう〉というのだ。

〈首相官邸を占拠して、総理大臣は監禁してしまう。次に、マスコミを通じて、全国民に新政府樹立に向けての参加要請のアピールを行う。〉

 そのため、暴力団ルートから銃器も入手し、予行演習も行っていた。

 ところが、ブント内の主導権争いで内ゲバが起き、藤本氏の学友が死亡するという、衝撃的な事件が発生する。さすがに〈この運動からは新しいものは生み出せない〉と悟った藤本氏は、〈赤軍派〉を離脱する。首相官邸占拠計画も、山ごもり訓練していた〈赤軍派〉が、山梨県大菩薩峠で大量逮捕されたことで、消え去った。

 その後、ほかのメンバーは、よど号をハイジャックして北朝鮮へ“亡命”したグループ、アラブに向かった重信房子たちのグループに分かれた。日本に残り、行き場を失った者たちは京浜安保共闘と合体し、〈連合赤軍〉となって、あさま山荘事件を引き起こすのである。

 藤本氏の手記の後半には、〈しょせん新左翼は絶望的な暴力闘争を展開せざるをえないという現状を、私は思い知らされたのである。〉と、後悔とも反省とも読める文章が登場する。

 ただ、それでもどこか諦めきれないようで、最後に〈革マル派だけはきわめて有利に陣地戦、組織戦への移行に成功している。〉と、過激な革マル派に賛美をおくっている。そのなかでも、松崎明委員長が率いる国鉄(現JR)の組合、革マル派の「動労」(国鉄動力車労働組合)を評価し、こう結んでいる。

〈これは日本の労働運動史上に初めて生まれた「革命的」団体といえるのではないか。来たるべき政治的流動化の重要な要因として、この団体は私の今、最も注目しているものの一つである。(了)〉

 このあと、週刊新潮は、この「動労」と松崎明委員長を、執拗なまでに追いかけることになる。そこでまた数々のエピソードが生まれるのだが、それはまた、別の機会に。

 一方、手記で「動労」を絶賛した藤本氏は、農事組合法人「鴨川自然王国」を設立し、晩年には農林水産省の諮問委員に就任した。            (一部敬称略)

※記事本文の引用は、一部、主旨を変えない範囲で、表記などを修正しています。

森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。

デイリー新潮編集部

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