【東京マラソン】「過去は“結果”でしかない――」 大迫傑選手が貫いた「周囲の声に振り回されない」生き方
3月1日に開催される東京マラソン2026では、大迫傑選手と鈴木健吾選手の新旧日本記録保持者の対決が話題を呼んでいる。大迫選手といえば、陸上競技界では先んじてプロに転向したり、6位入賞した東京五輪後の引退から1年も経たずに現役復帰してパリ五輪の日本代表に内定したりするなど、絶えず新たな挑戦を続けるアスリートだ。
昨年12月には、スペインのバレンシアマラソンで2時間4分55秒となる日本新記録を樹立。レース後、インスタグラムで「たくさんの疑念、不安、迷い。そして気づき、沢山のものを削って。」と投稿していたが、進化し続けるためのメンタルとはどのようなものなのだろうか。
彼の「強さ」について、スポーツ心理学にアドラー心理学を取り入れた第一人者・九州大学大学院准教授の内田若希氏が、新刊『意味ある敗北とは何か アドラー心理学で読み解くトップアスリートの言葉』で分析している。同書より一部を再編集して紹介する。
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過去に囚われると生み出される不要な悩み
「いろんなことを言われましたが、あまり気にしませんでした。“自分の目的”に集中していたので、周囲の反応に影響されることはありませんでした。(中略)常に今を大切にしています。今、この瞬間に行動しなければ何も変えられません。自分がワクワクすることや楽しめることにチャレンジできているのか。過去と未来はいわば、結果と想像でしかないですよね」(2021年11月10日 Seiko HEART BEAT Magazine)
――大迫傑選手(陸上)男子マラソン日本記録保持者/オリンピック2大会男子マラソン日本代表
アドラー心理学では、「過去」の対人関係にこだわるのではなく、あくまでも「現在」の具体的な対人関係にアプローチすることを重視します。例えば、「子どもの頃にすぐカッとなる父親に怒られてばかりいたから(過去)、男性コーチの顔色をうかがってしまう(現在)」というアスリートがいるとします。すぐカッとなって怒る父親は、過ぎ去った過去の中の登場人物にすぎません。逆に、現在も父親が衝動的に怒鳴りつけてくることに困っているというのであれば、それは現在の対人関係として扱うことになります。
競技スポーツをしている中で、「身体が小さいから無理」「このスポーツには向いていない」「(怪我などで離脱中に)もう、アイツは終わったな」など、周囲から様々なネガティブな言葉をかけられたことのあるアスリートは少なくないと思います。私は小学生の時にバレーボールをしていましたが、当時のスター選手だった大林素子選手に憧れて、「私もあんなふうになりたい」と夢見たことがありました。そんなある日、父親から「お前は身長が低いからバレーボールには向いていない。全日本代表とか絶対無理」と言われたのです。
高校生になる頃には、思春期ということもあり父親との会話はほとんどない(=私を否定する父親との関係性は存在していない)にもかかわらず、父親が過去に発した「向いていない」「絶対無理」という言葉が、その後も日常生活の多くの場面で脳裏をよぎり、「自分がうまくできていない」未来を想像して苦しく感じたことを今も覚えています。つまり、現時点において存在していない過去の対人関係に囚われるから、不要な悩み(怒りや不満、自己否定など)が生みだされてしまうのであって、そこに執着せずに現在の対人関係に目を向けて生きていくことが大切なのです。
心にトゲが刺さったまま抜けない人は……
とはいえ、過去に誰かが発した言葉が心にトゲのように刺さったまま抜けず、それに囚われてしまっている人もいると思います。そのような場合にどうしたら良いのか、そのヒントが冒頭の大迫傑選手の言葉に詰まっています。
2015年3月、大迫選手は大学卒業後に所属した実業団チームをわずか1年で退社し、プロに転向することを発表しました。実業団チームであれば安定した収入を得られますが、プロの世界ではレースの賞金やスポンサー契約で生計を立てなければならず、厳しい環境に身を置くことになります。
また、プロへの転向は、当時の日本の陸上競技界ではほとんど前例のない挑戦でした。このため、「実業団チームを辞めるなんてもったいない」「プロとして成績が出せなかったらどうするのか」「前例がないし、できるわけがない」といった言葉を耳にしたであろうことは、想像に難くありません。
にもかかわらず、大迫選手は前に進んでいきました。それは、「今、この瞬間」に自分の軸足を置いていたからだろうと考えます。もしかすると、プロとして活動する中で、過去に耳にしたネガティブな言葉が脳裏をよぎったこともあるかもしれません。そうであっても、「いろんなことを言われましたが、あまり気にしませんでした。“自分の目的”に集中していたので、周囲の反応に影響されることはありませんでした」と語っているように、「自分の目的」の達成のために「今、この瞬間」に何をする必要があるのかを考え続けたからこそ、その後も日本陸上競技界のトップアスリートとして記録を残したのだと思います。
心の中に存在する対人関係は過ぎ去った過去
この大迫選手の言葉を心に留めながら、つぎの例を考えてみてください。現在、大学1年生のA選手は、小学生から高校を卒業するまでの期間、Xコーチから指導を受けていました。Xコーチは厳しい指導で有名で、A選手は少しのミスでも叱責され、「そんなことでは、トップアスリートにはなれない」と繰り返し言われてきました。
A選手は、大学進学で地元を離れたのを機に、大学運動部を指導しているYコーチに師事するようになりました。Yコーチは、A選手の優れた面を拾い上げ、フィードバックしてくれる人でした。時に厳しいこともありましたが、「確実に記録が伸びている」「つぎの大会では上位も狙えるよ」などと声をかけてくれます。
ところがA選手は、Yコーチのフィードバックや声かけを、そのまま素直に受け止められないことがたびたびありました。なぜなら、長年にわたって叱責やダメ出しを続けてきたXコーチの声が脳裏に蘇ってくるからです。そして、「Yコーチは良い面をフィードバックしてくれるが、果たしてそれは本当だろうか」「自分なんかが上位を狙えるわけがない」と疑ってみたり、Yコーチの厳しい声かけに過剰に反応して、「やっぱり自分はダメなのだ」と考えたりするのです。
ですが、Xコーチはもはや過去の人物にすぎません。A選手は、過去のXコーチに振り回される必要はなく、トップアスリートになるために何をする必要があるのかをともに考え、現在の時間を共有しているYコーチとの対人関係を重視し、Yコーチの言葉を心に染み込ませながら進んでいけば良いのです。大迫選手の言葉を借りるなら、Yコーチとともにある「今を大切に」して「自分がワクワクすることや楽しめることにチャレンジできているのか」を考えながら、「今、この瞬間に行動」することが大切なのです。
そして、「過去と未来はいわば、結果と想像でしかない」のです。もし、過去から追いかけてくる「誰かの声」に苦しんでいるなら、「その人との関係性はすでにもう終わっている。ここで決別しよう」「私は今、自分の目の前にいる人たちと、未来の自分のために生きるのだ」と決心し、今、この瞬間にしっかりと目を向けてみてほしいと思います。心の中に存在する対人関係は過ぎ去った過去であり、その人たちの言動に囚われたり、振り回されたりする必要などないのです。
※本記事は、内田若希著『意味ある敗北とは何か アドラー心理学で読み解くトップアスリートの言葉』(新潮社)の一部を再編集して作成したものです。










