日本の政治家はなぜ二流ばかりなのか――「経済重視」の商人国家を待ち受ける「残念な末路」
10月の所信表明演説で、岸田文雄首相は「経済、経済、経済」と連呼し、経済重視の姿勢を打ち出した。しかし、歴史的に見れば、ベネチアやオランダなどの「商人国家」は、厳しい国際政治の中でその地位を守ることができなかった。
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戦後の国際政治学をリードした高坂正堯(1934~1996年)氏も、「経済合理性だけでは政治家は務まらない」と警鐘を鳴らしている。高坂氏の「幻の名講演」を初めて書籍化した新刊『歴史としての二十世紀』(新潮選書)から、一部を再編集して紹介する。
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経済学者シュンペーターは、「ブルジョアジーは政治階級としては失格である」と述べました。階級としてのブルジョアが出現する前の封建時代、社会を支配していたのは貴族でした。しかし、近代に移行する段階で、貴族階級はブルジョア階級から見ると邪魔者になります。そして、彼らの権限は段々弱められていく。しかし、本当は、ブルジョア階級、ビジネスで生きる彼らにとって、封建貴族は邪魔でありながら擁護者でもあったのです。
なぜ擁護者かというと、人間は常に合理的なものではないのであり、人間が何に従うかというと、威信とか力を体現しているものに対してだと、シュンペーターは説明します。ただし、そのような非合理的存在がある分だけ、合理的な経済活動が制約されることも事実です。
したがって、その制約をなくしていくと、古臭いタイプの政治家がいなくなったとき、政治をやる人間がいなくなるのではないかというのが彼の問いです。続いて、イタリアの都市国家やオランダを例に挙げて、商人だけが作った共和国は、国際政治上、うまくいかなかったというのです。
日本の政治家が二流である理由
私は政治学を専門にしていますので、その点はわかります。戦後の日本は、経済はいいが政治が悪いとよく言いますが、そんな罰当たりな事、いいなさんなと思います。話は逆で、政治が悪いから経済が上がったのです。経済の邪魔になりませんから。
だけど、政治を悪くするコストによって経済がよくなるわけで、それは、政治における決定やリーダーシップは極めて非合理的なものだからです。内容はさほど大事ではない。周りの人がいうことを聞くように、ある人が怒鳴らなかったら、まともなことも通りません。そういう能力がないから、私はアドバイスはしますが、政治はしないのです。
しかし、生まれつき政治家の素質である威信があり、他人を従わせる能力がある人はいます。理屈で済むなら大学で勉強すればいいのですが、それでは済まない。経済合理主義を重んじ、政治の力に制限を加えるようにしてきた戦後日本では、発言だけで周囲が従わざるを得ない空気になるような政治家は出てきませんでした。外国との交渉で、日本人は皆、自分たちの代表者の不甲斐ない姿に腹を立てる。しかし、そういう政治家しか作っていないのですから仕方がありません。
国際的な交渉で大事なのは、代表者の迫力です。そんな人を生み出すには、安全保障に高い関心がある人でないと駄目です。経済はお金の計算で済みますが、安全保障の話では、人間がいかに不合理かがわかります。安全保障において求められるのは、不合理な人間の説得の技術です。
池田勇人首相の「核武装」論
戦後日本が安全保障に金をかけてこなかったのは事実ですが、政治家にはそのことについて関心だけは持ってほしかった。しかし、それも吉田茂のお弟子さんでお終いです。吉田さんは軍事費に金をかけない決断をしましたが、古いタイプの政治家でしたから、国際社会で生き残るために武力が必要であると知っていました。戦争に敗れ、再建中だった当時の状況では、それができなかっただけです。後継者の池田勇人、佐藤栄作もわかっていました。
だからこそ、池田は核武装すべきと語ったことがあります。池田勇人の業績というと経済発展だけというイメージがありますが、ちゃんと彼の本にそう書いてある。それを日本人は知っていて無視している。いかに政治音痴なのでしょうか。あるいは、池田は気の迷いでそう口走ったと判断しているのかも知れません。しかしそれは誤りで、彼は武力の重要性を知っていました。ただ、戦後15年しか経っていないので、すぐに事には取りかかれないと理解していたのです。
しかし、それから先の首相は経済発展すればそれでよい、となりました。そうなると、立派な政治家が出てくるはずはない。軍事問題に不案内なので、それに対する感覚がない。これはどうすべきか。
答えは二つに一つで、日本がアメリカの51番目の州になるのも選択肢の一つです。これは決して悪いものではありません。もう一つのシナリオは、日本では危機が迫ってくると、時々、突然変異みたいな人間が出てくることがあるので、それに期待することです。源頼朝にしても、大久保利通にしても、あんなに異様な日本人はいません。二、三百年に1人か2人登場するはずの変わった人物なしで日本が滅びるとしたら、それはそれでスカッとして諦めがつきます。権力のなんたるかがわからない政治家に指導された国はどこか危ないのです
※本記事は、高坂正堯『歴史としての二十世紀』(新潮選書)の一部を再編集したものです。