「いったん攘夷のち開国」――幕末の志士たちの不合理な作戦がもたらした「意外な果実」とは

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 幕末の黒船来航をきっかけに、開国派と攘夷派の間で激しい主導権争いが繰り広げられた。今から見れば、強大な西洋諸国との戦争を避けて開国するのが当たり前、攘夷を目指した一部の志士たちは不合理だったという評価が相場だろう。

 しかし、戦後の国際政治学をリードした高坂正堯氏(1934~1996年)は、攘夷派も一定の役割を果たしたと評価している。高坂氏の「幻の名講演」を初めて書籍化した新刊『歴史としての二十世紀』(新潮選書)から、一部を再編集して紹介する。

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 皆さんがよく知っているように、幕末、アメリカがやってきて開国するよう迫りました。日本には、攘夷対開国という議論がありましたが、攘夷派には、わけのわからん「毛唐」どもにきてもらっちゃ困るという気持ちがあったことは事実です。
 
 しかし、そんな馬鹿だらけでは成功するわけがなく、馬鹿の一味の中で議論されていた、すこし込み入った話の一つに「いったん攘夷のち開国」があります。要するに、「外国から強制されて開国するのはいかん。したがって、ともかく外国の軍隊と軍艦を打ち払い、いったん攘夷をする」という考え方です。それから、自分の意思で自主的に開国をすべきであるという、今から振り返ってみると、まるで合理性を欠いた主張です。開国して仲良くするつもりだが、その前に一発殴らんと気が済まんと、そこまで低級でなかったかもしれませんが、大枠はそういうことです。
 
 いったん攘夷できたとして、「わかりました」と向こうが帰り、もう一度「どうぞおいでください」と言ったら、相手国が「はい、そうですか」と言うなんて、なんの確証もありません。攘夷されかかったら、向こうは無理にでも開国させようとします。そういう点で馬鹿げた議論なのですが、そうすべきだと言っていた志士が言いたかったのは、「国には魂みたいなものがあって、外からなにかを強制されるとプライドが損なわれる。それは嫌だ」ということです。

薩英戦争がイギリス人に与えた影響

 実のところ、日本は「いったん攘夷のち開国」を部分的にやったかもしれません。ご存知のように、薩摩藩士が今の横浜市内にある生麦でイギリス人に切りつけ、犠牲者は当地の外人墓地に眠っていますが、その生麦事件の犯人引渡しと賠償金をイギリスが求めて、薩英戦争が起こります。攘夷を試みた結果、鹿児島は灰燼に帰します。砲弾を受けて街が焼かれる過程で、薩摩藩の人々は攘夷の非現実性を認識し、開国して外国の文物を取り入れるしかないとわかります。
 
 一方、イギリス側に与えた影響も大きかった。彼らの軍艦が鹿児島湾に入ってきた時に目に入ったのは小さな都市、せいぜい二階建て家屋や大藩にしては地味な鶴丸城ぐらいでしょうか。砲台に大砲が並んでいましたが、望遠鏡で覗いてみると、英軍の新式火器の相手にならないような、何十年前の古いもの。「向こうはすぐに屈服するに違いない」と思ったはずです。

 ところが、向こう見ずにも突然、古めかしい大砲を撃ち始めたわけですから、イギリス海軍がびっくりしたことは間違いない。イギリスの旗艦は錨を巻き上げる時間もないので、鎖を切り、速やかに戦闘態勢に入りました。戦闘が済んで、艦隊が退却するときも錨は回収されず、これが錦江湾に残りました。軍艦の命とも言えるアンカーを置いて帰還したということは、「七つの海を支配する」イギリス海軍にとって最大の恥辱であり、後日、薩摩藩が返還したときに大いに喜んだという逸話があります。

 薩英が和解した後、紳士的に錨がイギリス艦隊に戻されたので、向こうが日本人を見る目が変わったことも事実です。薩英戦争は軍事的には無意味でしたし、発端となった生麦事件も大名行列を横切ったから無礼討ちしたという野蛮な話ですが、結果的に「いったん攘夷のち開国」をやってわかったこと、相手に思わぬ印象を与えたことはあったのです。

※本記事は、高坂正堯『歴史としての二十世紀』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

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