「三木首相殴打事件」の右翼がすべてを目撃していた…保釈中の「田中角栄」にケタ違いの警備が敷かれた理由

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毎週日曜日朝6時半に、迎えの車が

 角栄邸から40~50メートルほど離れたところに、通常の派出所がある。

《「そこは三人いて四交代制。制服二人に私服が一人いるんですが、この三人が以前はほとんど田中邸の中へ入ったきりだった。そうしたら、付近の住民から“交番に誰もいないのは不用心だ”との文句が出たとかで、今は制服が一人は必ずいますね」》

 などと、まずは周辺の警備状況の説明からはじまった。近所の状況まで、実によく見ているのだ。

《「毎週日曜日はだいたいゴルフですね。朝六時半ごろ、早坂秘書がクルマに乗って迎えに来ます。しばらくすると、今度はSPのクルマが一台来ます。そのうち、制服が出てきて周囲をキョロキョロ見ると、無線か何かで“じゃ、いいですか”とかいい、それから二台のクルマが出てきます。前のクルマには田中と早坂秘書。それに運転手のほかもう一人。SPのクルマには全部で四人乗っていますね」》

 どうやら、常に、角サンの車とSPの車の、2台体制だったようである。そして――当時、ロッキード裁判は、毎週水曜日に公判が開廷されていた。

《「今年の二月ごろだと思うんですが、水曜日、公判に行くために田中の乗ったクルマが出てきたところ、待ち構えていた『野武士会』(これも“行動右翼”の団体)の街宣カーが、田中のクルマとSPのクルマの間に割り込んじゃったんですね。江戸川橋の辺りまで、くっついて行ったようです。あとで伝え聞いたところでは、田中はこれについて相当、怒ったようですね。“後藤田クンによくいっとけよ”といったとか。田中邸の警備は、それ以後、ガラッと変りました。水曜日はいつも九時十分ごろに出てくるんですが、現場で大塚署の人からやめてくれといわれましたし、しばらくは路地という路地に、全部で五十人くらいの警官が立っていました」》

 以来、筆保氏は、水曜日だけは、東京地裁へ出向いて太鼓を叩くようになった。

「とにかく筆保氏が、細かく見ているので、感心してしまいました。途中、何度も警察からやめるよういわれたり、騒音測定器で“計測”されたりしたこともあったそうですが、その後も、かなり長く“抗議活動”を続けた、ぶれない男でした」

 筆保氏は、赤尾敏総裁の没後、「赤尾敏先生遺訓継承・大日本愛国党」という名称の“分派”的な組織を継承していたが、2005年に64歳で逝去。その後、夫人の筆保道子さんが継承したが、その道子さんも逝去されたと伝わっている。

 田中角栄邸は、相続税対策とかで、土地の半分が文京区(左隣の目白台運動公園)に“物納”され、門構えは往時の半分ほどに縮小している。ここに住んでいる長女の田中眞紀子さん(元外務大臣)が、時折、隣の公園を散歩で訪れ、近所のひとたちとにこやかに挨拶を交わしている姿が見られる。2024年1月には、邸内の建物が火災で焼失したとのニュースも伝わったが、中の様子は、うかがい知れない。

 かつて、ここで毎朝、太鼓を叩いていた右翼がいたことを知るひとも、少なくなった。田中角栄が没して、32年余となる。

森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。

デイリー新潮編集部

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