ロックンローラー「内田裕也」がキレた! 日本語とロックをめぐる伝説的「揉め事」の真相
はっぴいえんどの革新性
1950年代後半から1960年代前半にかけて、在日米軍基地から滲みだしてきたアメリカ産ティーンポップやエルヴィス・プレスリーに象徴されるロックン・ロール(ロカビリー)は、翻訳・翻案されて和製ティーン・ポップとして人気を集めたが、これは日本語だった。ビートルズなどに触発されて1960年代中盤から1970年代初めにかけて醸成されたGS旋風を巻き起こしたバンドも基本的に日本語で歌った。コンサート(当時は「ライヴ」とは言わなかった)では、英語で原曲をカヴァーするもあったが、録音されたものの多くは英語から翻案された訳詞だった。つまり、1950年代~60年代に米英から移入されたポップス、ロックン・ロールの大部分はハナから日本語だったのである。
当時しばしば語られた「英語ロック派」の論拠はこうだ。日本語は一音一拍でシラブル(音節)が長く、英語のような強弱アクセントがないため、ビートに乗せにくい。とりわけ16ビートやブルース進行には馴染まない。だから英語で歌うべきだ――。
しかし現実には、日本語の韻律を工夫すればロック的なリズムに乗せることは十分可能だった。松本隆の詞はその好例だ。はっぴいえんどのファースト・アルバム(通称「ゆでめん」)収録の「春よ来い」「12月の雨の日」といった曲は、日本語の語感を尊重しながら、ロックのビートに違和感なく乗せている。松本は、書いた詞を、ローマ字に変換して音韻を整えたというが、アヴァンギャルドなフォーク歌手・遠藤賢司の歌い方にヒントを得て独自の歌唱法を編み出した大滝の技巧も無視できない。
他方、英語に固執してカナダに渡ったフラワー・トラヴェリン・バンドの失敗例も象徴的だ。彼らは海外進出を目指してすべて英語詞で歌ったが、現地での成功は限定的で、むしろ「日本から来た奇妙なバンド」と見られた。北米大陸での競争力を得るには、単なる英語化ではなく、独自の個性が求められていたのである。
「ロックに日本語はのらない」という神話は、言語特性そのものよりも、戦後の占領期に培われたある種の文化的コンプレックスの反映に過ぎなかったのではなかろうか。
第1回【ファンが暴れて後楽園に機動隊出動! 新聞がこぞって叩いたハード・ロック・バンドの名前…ロックが揉め事だらけだった時代】では、ロックが“反権力の象徴”として新聞紙面を賑わせた時代を振り返る。
[3/3ページ]

