ロックンローラー「内田裕也」がキレた! 日本語とロックをめぐる伝説的「揉め事」の真相
「そんなにURCのレコードがいいのか」
米津玄師が日本語で歌う「IRIS OUT」が米ビルボードチャートを賑わせている現在、「日本語はロックのリズムにのるのか、のらないのか」などというテーマで議論する人は滅多にいない。しかしかつて、このテーマでいい大人が熱く大真面目に揉めていた時期があったのだ。批評家の篠原章氏が、ロック界の「揉め事」を振り返る。【篠原章/批評家】
第1回【ファンが暴れて後楽園に機動隊出動! 新聞がこぞって叩いたハード・ロック・バンドの名前…ロックが揉め事だらけだった時代】からの続き。
(全2回の第2回目)
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日本語はロックのリズムに乗せられるのか――いわゆる「日本語ロック論争」は今や歴史上の出来事に近くなってきた。
この論争のきっかけは、細野晴臣、大滝詠一、松本隆、鈴木茂から成るバンド、はっぴいえんどのファースト・アルバム「はっぴいえんど」(URC/1970年発売) が、NMM(ニューミュージック・マガジン)誌選定の「第2回日本のロック賞」(1971年4月号)を受賞したことに遡る。同誌5月号の特集「日本のロック情況はどこまで来たか」の座談会で、“永遠の不良ロッカー”内田裕也がその受賞に咬みついたのである。
「ぼくは去年のNMMの日本のロックの1位が岡林で今年ははっぴいえんどだと。そんなにURCのレコードがいいのか、われわれだって一生懸命やってんだ、といいたくなるんだ」
前年の受賞作が、やはり同じURCからリリースされた岡林信康の「わたしを断罪せよ」だったこともあって、内田の不満が爆発したのである。のちにさまざまなバイオレンス的エピソードが伝説のように伝えられることとなる内田は、当時も喧嘩っ早かった。
URCの正式名称はアングラ・レコード・クラブ。「帰ってきたヨッパライ」(1967年)で一世を風靡したフォーク・クルセダーズが所属していたプロダクションが設立した日本のインディーレーベルの草分けで、プロテスト・フォークまたはアングラ・フォークと呼ばれる歌を自作自演するアーティストの作品を世に送り出していた。言うなればURCはアンチ芸能界的な存在で、芸能界で育ったロックンローラーである内田にとっては、青臭く胡散臭いレーベルだった。
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