ファンが暴れて後楽園に機動隊出動! 新聞がこぞって叩いたハード・ロック・バンドの名前…ロックが揉め事だらけだった時代
GFR来日公演で生じた「騒動」
GFRは論争のあった1971年夏に来日を果たし、7月17日に本邦初の後楽園球場ライブを行った。グループサウンズ(GS)時代後期に登場した“モップス”など、日本のアーティストの前座が終わり、いよいよGFRの出番が予定された午後8時になった途端、突風を伴う猛烈な雷雨が会場を襲った。当時の後楽園は読売巨人軍が拠点とするたんなる野球場に過ぎず、演奏会といったカルチュラルなイベントなど端から想定されていない造りだったから、「屋根」といえるほどのものはない。雨天決行とされていたものの、激しい風雨を防ぐためPAなどの装置はブルーシートですっかり覆われ、予定時間になってもGFRはステージに現れない。ずぶ濡れになった約3万5000人のファン(その大部分は若い男子)は、この事態に却って興奮し、怒声にも近い野太い声で「G・F・R!G・F・R!」と連呼しつづける。
雷雨が収まったのは1時間半後の午後9時半頃。ニッポン放送の当時の人気DJ・糸居五郎がGFRをステージに呼びこむと、聴衆の熱狂は頂点に達し、GFRが演奏を始めた途端、男どもの絶叫で球場全体が包まれた。彼らの絶叫とGFRの発する大音量は、約2キロ半離れた上野駅周辺まで轟くほどだったという(当時の後楽園~上野間には音を遮るほどの高層ビルはなかった)。フェンスを乗り越えてフィールド内に入りこみ、警備関係者につまみ出された複数のファンも目撃されている。
興奮の坩堝と化した後楽園球場の周囲を、当日券を入手できなかった約2000人のファンが取り巻いていたが、彼らもまた折からの雷雨と球場内から漏れ出だしてくる大音量に興奮し、なんとか球場内に入ろうと試みて隙のあった12番ゲートに殺到、警備に当たっていた警視庁機動隊と激しいもみあいになって負傷者も出たという。
「狂演」「暴徒」と報じたメディア
こんな恰好のネタをメディアが放置するわけがなく、翌7月18日の朝刊には、「雷雨も顔負けヤング“狂宴”―ロック・カーニバル 四万人絶叫、ケガ人も」(讀賣新聞)、「ロック大会入場できず 若者二千人大荒れ」(朝日新聞)などといった大見出しが躍ったが、この事態にもっとも否定的な姿勢で臨んだのは東京新聞である。同紙は、「とんだ“真夏の夜の狂宴” 後楽園でロック騒動 ファン二千人“暴徒化” 投石…放火…場内乱入 機動隊が規制 警備員らがけが」という見出しをつけた6段抜きの大袈裟な記事を掲載した。ロック・ファンの起こした騒ぎを、過激派のテロやヤクザの抗争と等しい目線で扱ったのだ。
実際に投石や放火があったのかは不明だが、逮捕者が出ていない以上、現場の警察官も悪質な暴力行為があったと判断しなかったに違いなく、東京新聞の扱い(とくに扇情的な見出し)は、「ロックを毛嫌いするデスク」の仕業だと考えて良さそうだ。もっとも、世間一般のロックに対する当時の認識は、東京新聞とは大きく違っておらず、「ロックは不良の音楽」「ロックは反権力・反権威の象徴」「ロックは音楽ではなく秩序を乱す暴力的な騒音」と見なす人たちが多数派だった。
だが、こうした報道によって、GFRをイモバンドと見なして相手にしなかったロック・ファンも、「GFRも国家権力(=警察)に弾圧されているから正統的ロックかも……」と考えはじめたようだ。ロックに関わるそうした「定義」の是非はともかく、後楽園での騒ぎが報道されて以降、GFRへの賛否をめぐる「揉め事」は徐々に収束していく。
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