地元政界の恩讐が渦巻いた「2021年横浜市長選」…カジノ誘致に反対した「ハマのドン」の思惑と「ミナトの裏面史」

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「ミナトの顔役」

「ハマのドン」としてメディアで扱われることが多い藤木本人が好んで使う最近の肩書きは、「一般社団法人 横浜港ハーバーリゾート協会会長」。

 先代の幸太郎の代から、横浜港で事業を展開する企業や労働者をとりまとめてきた藤木企業(旧藤木組)のボス、いってみれば「ミナトの顔役」である。なぜ横浜に「ドン」が存在するのか。それを理解するためには、なによりも横浜のミナトとしての歴史を振り返ることが必要である。

 ペリー来航をきっかけに開国した日本が、1858年にアメリカと結んだ日米修好通商条約により幕府は神奈川湊(現在の横浜市神奈川区)の開港を約束したが、神奈川では、東海道の神奈川宿や江戸に近すぎることを危惧した幕府が、その対岸にあった人口数百人の寒村・横浜村を神奈川の一部だと称して、アメリカ人やアメリカの船舶(軍艦を含む)に開放したことが横浜の港としての出発点である。

 明治維新が起こり、文明開化の時代を迎えて横浜は貿易港として急速に発展するが、その発展を支えたのは、一攫千金を狙って全国各地から集まってきた商人と、生まれた土地を追いだされるように飛び出してきたアウトサイダーやアウトロー、職と居場所を求めて港に流れ着いた者たちばかりだった。

 とりわけ、港にとって不可欠な存在でありながら重労働に耐える荷役夫(沖仲仕)の需要は高く、腕に覚えのある者や体力に自信のある者が荷役作業に従事したが、劣悪な労働環境・労働条件を背景に、酒、博打などに慰めを求める者も多く、荷役夫同士の諍いも絶えなかったという。

 こうしたトラブルを避けるために、荷役夫の手配をする人足請負業者(現在でいうところの人材派遣業)の多くは、無頼の者を雇い入れて強引に押さえこもうとしたが、トラブルの根っ子には請負業者が労働者を不当に搾取する歪んだ雇用構造があったから、力による押さえ込みの効果は乏しかった。

「藤木幸太郎」と「山口組三代目」

 この状況を大きく変えたのが、1912年に神戸からやってきた酒井信太郎(酒井組=現・横浜港湾作業の創業者)と、その配下で頭角を現した藤木幸太郎(藤木組の創業者)である。二人とも叩き上げの荷役夫を経て親方になった人物だったため、荷役夫の状況をよく理解しており、時には労働組合による賃金引き上げ要求を支援し、荷役夫の安全確保や福利厚生にも力を尽くした。

 二人がこのように努力を積み重ねた結果、1925年、横浜の酒井と藤木、神戸の鶴井寿太郎、藤原光次郎という4人の親方が結束して親睦団体「鶴酒藤兄弟会」(通称・鶴酒藤)が生まれ、全国の港湾業者のほとんどが鶴酒藤の傘下に入った。鶴酒藤は、荷役や港湾に関わる政府の方針に影響を与え、荷役夫の労働条件や労働環境は大幅に改善されたが、任侠道にも似た閉鎖的な親分・子分の絆(義理と人情)が問題化することもあった。

 とくに問題となったのは、藤木が博打に理解を示し、自ら賭場を開帳、荷役夫に娯楽の場として提供したことだ。藤木は「外部のやくざから荷役夫を守るため」としたが、端から見れば藤木もやくざの起源の一つである「博徒」の胴元にしか見えず、賭博法違反で警察の摘発を受ける対象となった。

 1951年、酒井・藤木などの政府への働きかけにより「港湾事業法」が制定され、1956年になると業界団体である全国港湾荷役振興協会(全港振)が設立された。初代会長に藤木が就任したのは当然として、問題は副会長に神戸の荷役業者である田岡一雄が選任されたことだ。

 これが「荷役業者=やくざ」という世間のイメージを増幅することになった。田岡は、荷役業を営む一方、山口組三代目組長としても辣腕を振るっていたからである。また、藤木と同じく横浜の荷役夫の親方だった笹田照一や鶴岡政次郎も、それぞれ笹田一家や綱島一家(稲川会の起源)という博徒集団を率いていたが、これも負のイメージの要素となったことは否めない。

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