【柴田勲のコラム】「長嶋茂雄」を最後まで演じ切った長嶋さん…パーティにあえて“遅刻”、栄光の「3」復活披露を焦らしに焦らした深すぎる理由

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そして「永久に不滅」の存在へ

 92年秋、長嶋さんは12年ぶりに巨人に復帰した。この時、プロ野球はJリーグに代表されるスポーツの多様化の中で、人気に陰りが見えていた。

 長嶋さんが救世主として登場したのは巨人だけではなく、プロ野球界全体の将来を考えてのことだったと思う。ファンを魅了し続けて、プロ野球を変えた。「ミスタープロ野球」と称される唯一無二の存在だ。

 ファンの期待に応えて、最後まで「長嶋茂雄」を見事に演じ切った。

 11月21日、東京ドームで「ミスタージャイアンツ 長嶋茂雄 お別れの会」が開催された。私も出席した。球界内外から約3万2400人が駆け付けた。こんな人はもう出てこないだろう。

「巨人軍は永久に不滅です」は名セリフ中の名セリフだが、私は思う。

 長嶋さんこそ「永久に不滅です」と。

(※)80年10月20日(広島市民球場)、午後1時1分試合開始、観衆9000人、試合時間2時間31分・スコア:巨人002011001=5・広島100001100=3。
巨人・江川卓、広島・福士敬章の先発で始まった。巨人は三回、ロイ・ホワイトの29号2ランで逆転、そのまま主導権を握って押し切った。江川が好投、角盈男(三男)が見事なリリーフを見せた。柴田勲は9回の7号ソロを含む3安打と活躍した。
高田繁はこの年限りで引退、ジョン・シピンは解雇された。柴田はこの年、2000本安打を達成、翌81年もコーチ兼任として現役を続行した。

(敬称略)

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 チャンスに応える。何かをやってくれる。ファンの期待を現実にする――。このイメージが定着したのはいつのことだったのか。第1回【長嶋茂雄さんが「一番幸せな死に方を知っているか?」と言った日のこと…人の悪口を一切言わず、イメージを守りぬいた“ミスター”の秘話】では、長嶋氏が若くして背負っていたものを明かしている。

柴田 勲(しばた・いさお)
1944年2月8日生まれ。神奈川県・横浜市出身。法政二高時代はエースで5番。60年夏、61年センバツで甲子園連覇を達成し、62年に巨人に投手で入団。外野手転向後は甘いマスクと赤い手袋をトレードマークに俊足堅守の日本人初スイッチヒッターとして巨人のV9を支えた。主に1番を任され、盗塁王6回、通算579盗塁はNPB歴代3位でセ・リーグ記録。80年の巨人在籍中に2000本安打を達成した。入団当初の背番号は「12」だったが、70年から「7」に変更、王貞治の「1」、長嶋茂雄の「3」とともに野球ファン憧れの番号となった。現在、日本プロ野球名球会理事を務める。

デイリー新潮編集部

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