【柴田勲のコラム】「長嶋茂雄」を最後まで演じ切った長嶋さん…パーティにあえて“遅刻”、栄光の「3」復活披露を焦らしに焦らした深すぎる理由
監督解任直前の試合で花道を用意
人との付き合い方もそうで、気を使っていないように見えて、実際は計算をして気を使っていた。
あれは長嶋さんが巨人の監督を解任された80年10月21日の前日、20日のことだった。
その日の広島球場での広島戦は最終戦(※)だった。勝てば3位となり、長嶋さんは来季以降も留任すると見られていた。実際は19日の夜に球団から連絡が入り「今年限りで辞めてもらう」と伝えられていたと聞く。
でも最終戦に勝てば……わずかな可能性を賭けた大事な一戦だった。
巨人は若手が台頭し世代交代に入っていた。私は36歳でシーズンの後半戦ではベンチを温めることが多くなっていた。そんな試合で1番・右翼でスタメン起用してくれた。
これには大感激した。高田(繁)も2番・左翼でのスタメンだった。6番・二塁でジョン・シピンの名もあった。シピンは篠塚(利夫=現和典)に定位置を奪われていた。
長嶋さんにとって我々は一緒に戦ってきた「戦友」、大切にして花道を用意してくれたんだ。私は本塁打を放った。
解任決定前夜にも見えたONの絆
試合には勝って3位を死守したが、解任の動きは止まらなかった。21日には読売本社で正式に退任会見を行った。
長嶋さんは19日の夜、球団から「辞めてもらう」と告げられた後、すぐに王さんに打ち明けている。王さんはこの年限りでバットを置く、つまり現役を引退するつもりで、評論家への転身も決まっていた。
長嶋さんは王さんと話し合った。「いまここでONが巨人を去ったら大変なことになる」と王さんを説得した。
王さんは現役引退を表明。藤田(元司)さんが監督として復帰し、王さんは助監督として支えた。長嶋さんと王さんの絆の強さがわかってもらえると思う。盟友だね。
無念だったし、屈辱でもあったと思うけど、どんな状況に陥っても巨人の将来を考えていたと推察する。
[3/4ページ]

