【柴田勲のコラム】長嶋茂雄さんが「一番幸せな死に方を知っているか?」と言った日のこと…人の悪口を一切言わず、イメージを守りぬいた“ミスター”の秘話
若くして日本球界を背負っているという自覚
チャンスに応える。何かをやってくれる。ファンの期待を現実にする。このイメージが定着したのはプロ2年目、59年6月25日の「天覧試合」で村山(実)さんから放ったサヨナラ本塁打からだろう。
前年には本塁打と打点で二冠王に輝いて新人王を獲得し、プロ野球界に新風を巻き起こしていたが、このサヨナラ本塁打は両陛下が退出される直前のことであまりにも劇的だった。
日本は高度成長期に突入しており、プロ野球が国民的娯楽となる扉を開いた。隆盛期に向かったと言っていいだろう。
若くして日本の球界を背負っている。これを自覚していたからこそ、長嶋さんは「長嶋茂雄」を最後まで演じ続けてきたのだろう。(この項続く)
(※)80年・44歳の時に巨人監督を解任された。92年秋に56歳で巨人の監督に復帰、足掛け12年の充電期間を過ごした。
***
「世間ではオレのことを天才だという。でもオレは天才なんかじゃない」――努力を見せなかった長嶋氏が“本当の天才”と呼んだ選手とは。第2回【「長嶋茂雄」を最後まで演じ切った長嶋さん…パーティにあえて“遅刻”、栄光の「3」復活披露を焦らしに焦らした深すぎる理由】では、監督時代の秘話を伝える。



