【柴田勲のコラム】長嶋茂雄さんが「一番幸せな死に方を知っているか?」と言った日のこと…人の悪口を一切言わず、イメージを守りぬいた“ミスター”の秘話
柴田勲が見た“ミスター”の信念と人生
2025年6月3日、長嶋茂雄氏が逝った。ミスタージャイアンツとして、多くの人に影響を与えた日本球界のスーパースター。プロアマを問わず、長嶋氏に憧れて野球を始めた選手は数多い。尊敬する先輩、監督として長嶋氏を見続けた柴田勲氏もその1人だ。好評連載コラム「柴田勲のセブンアイズ」、今回は特別編として長嶋氏の思い出を語りつくす。
(全2回の第1回)
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2025年、開幕戦の欠席
2025年が暮れようとしている。
今年もいろいろなことがあったが、私にとって最も大きかった出来事は長嶋(茂雄)さんが亡くなられたことだ。
寂しい年の瀬になった。
3月28日、東京ドームでの巨人対ヤクルトの開幕戦に行った。長嶋さんに会うためだ。毎年、開幕戦には必ず顔を見せて、巨人ナインを激励する。ところが今年は来ていなかった。巨人関係者に聞くと体調が悪いという。
まだまだ大丈夫だろうと思う反面、恒例であり、楽しみにしている開幕戦をパスしていた。ずっと心配していたが、6月3日が来てしまった。
長嶋さんに憧れて始めた野球
私は当時の子供たちの多くがそうだったように、長嶋さんに憧れて中学から野球を始めた。法政二高のエースとして1960(昭和35)年夏、61年春の甲子園大会で全国制覇を果たし、数球団から勧誘された。
巨人は川上(哲治)さん、南海(現ソフトバンク)は鶴岡(一人)さん、さらに大洋(現DeNA)から三原(脩)さんが横浜・本牧の自宅まで来てくださった。
契約金は南海と大洋が巨人の倍だった。まだ高校生だ。金銭感覚がなかった。両親から「自分で決めなさい」と言われて、ファンだった巨人に入団を決めた。それになんと言っても憧れの人、長嶋さんがいる。
62年、投手として入団した。長嶋さん、王(貞治)さんをバックに投げる。夢のような話だった。
でも肩を壊していた。結果を出せず、川上さんから6月頃には打者転向を命じられた。しかも左右両打でやれという。やれる限りの努力をした。スイッチをモノにして63年から1番打者としてレギュラーに定着した。
以来、長嶋さん、王さんとともにプレーし、お2人と並ぶ最多11度の日本一を経験させてもらった。
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